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フィンランド教育の失敗:日本の詰め込み教育はそこまで悪いのか?

社會部部長46:19

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Amazonでフィンランドと検索すると、必ず出てくる言葉があります。教育です。

「フィンランド教育はなぜ世界一なのか」といった本がずらっと並ぶことから分かるのは、フィンランドが教育先進国であるという常識です。フィンランドの教育が注目されたきっかけは、20年ごとに行われた全世界規模の学力調査。この調査でフィンランドは3科目で1位、2位、1位と輝かしい結果を叩き出したのです。

しかも、世界中の教育関係者を真に驚かせたのは、その意外な教育法でした。なんとフィンランドは勉強量をあえて減らすことで学力を向上させたのです。

日本でもフィンランド教育はまたたくまに注目を集めました。何しろフィンランド教育は詰め込み教育とは真逆の方法で日本を追い越したからです。そして、フィンランド教育が優れているという印象が受け継がれて今日に至るわけですが、近年、当のフィンランドではこれを否定するような声が出始めています。

「フィンランドの止まらない学力の転落に広がる波紋」「フィンランドの教育は学力向上に失敗している」「もはやEUとOECDにも勝てないフィンランド教育」「フィンランド教育は風前の灯か」カナダも注目を。フィンランド教育に一体何が起こったのか。

先ほどの国際学力調査のその後を振り返ってみると、そこには目を疑うような結果が映っていました。読解力でフィンランドはしばらく高成績を維持するも、2018年から急速に低下。化学力も同じ流れで落ちています。最も顕著なのが数学で、2022年にはなんと20位まで転落しました。これは点数で見るとさらに深刻で、3科目全てで継続的に点数が落ちているのみならず、その速さは平均よりも早いことが浮き彫りになっています。

では一体なぜ、フィンランドの学力はここまで下がったのか。世界一と称えられた教育制度はなぜここまで衰退したのか。今回は日本ではほとんど取り上げられないフィンランド教育への批判的な見方、そして日本の詰め込み教育の意義を今一度考え直します。

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ことの始まりは2000年。OECDが初めて実施した全世界の15歳を対象にした学力調査で、フィンランドは全ての科目で4位、読解力では1位と輝かしい実績を上げた時でした。この調査結果が公開されるまで、フィンランド教育は無名の存在でした。この北欧の小さな国が教育先進国であることを誰も知らなかったのです。フィンランド人自身でさえ、まさか自分たちの教育がここまで優れているとは思っていませんでした。

「フィンランドの教育関係者は、我々の教育があれほど優れているとは思っていなかった。最初のPISAの結果が出る直前、私は北欧の教育関係の会議に出ていたんだが、そこでは誰もフィンランドのことなんて気にかけていなかった」と回想しています。学力調査の結果を受けて、フィンランド教育は一気に世界の注目の的となりました。その秘伝の教育法を盗めべく、世界中の教育関係者がフィンランドに詰めかけたのです。

『フィンランド教育の成功の秘訣を綴った「フィンランドからの教訓」、世界はフィンランドの教育改革から何を学べるか』は、教育本としては異例のベストセラーとなり、30以上の言語に翻訳されました。フィンランド教育がここまで注目された理由は、その心配してしまうほどの思い切りにありました。

フィンランドのあえて勉強量を減らすやり方は、他の国の教育関係者にとって大きな衝撃でした。それまでは勉強すればするほど学力は上がるというのが常識で、学生が猛勉強する東アジア諸国ではそうして高い学力を維持してきました。欧米でも学力を上げるために学生にもっと勉強させるべきとの声は存在しましたが、多めに否定されてきました。子供を机に張り付かせて勉強を強制するというのは、欧米の個人の自由と主体性を重んじる価値観とは相入れなかったからです。学力が高いに越したことはないのですが、欧米は東アジアとは違う方法を取りたいという葛藤に苛まれていたのです。そこに救世主のように現れたのがフィンランドでした。何しろフィンランドは、まさに勉強量を下げることで学力を向上させるという、欧米の理想通りの方法で成功を収めたからです。

フィンランドは東アジアでも同じくらい注目を集めました。なぜなら、勉強していないフィンランド人が勉強している自分たちよりも学力が高いとなれば、自分たちが必死にしている猛勉強には意味がないことになるからです。特に受験戦争に苦しめられた世代は、フィンランド教育に強い憧れを持ちました。「フィンランド人は自分たちがやってきた受験も暗記も宿題もしないで高い学力を得ている。だから日本人ももう詰め込み教育をやめてもいいのではないか」と考えたのです。フィンランド教育はこうして日本のゆとり教育を強力に後押ししました。

しかし、フィンランド教育の成功の秘訣と盛んに歌われてきたこの確信的なゆとり教育は、実は本当に学力を向上させているとする、こたる根拠はありません。フィンランド国立経済研究所のある研究者は、フィンランドのPISAの結果を支えるとされる要因には強い根拠がないとしています。

フィンランド教育の成功法を疑うべき理由は2つあります。1つ目は、教育は因果関係が掴みづらいからです。学力には教育法だけでなく、経済や治安、家庭環境、健康状態、文化、遺伝など無数の要素が複雑に影響します。よく東大生の親が子供を東大に入れた教育法を伝授する本が人気を発しますが、実際のところ東大生の親全員が共通して実践する教育法というのは存在せず、結局共通しているのは両親ともに高学歴、家庭環境が良好、健康、治安の良い地域に住む裕福という、教育法とは関係ない部分だったりします。したがって、フィンランドの学力が高い理由もその教育法にあるとは断言できないのです。特にフィンランドはかなり豊かで安全な国なので、学力は単にそれを反映しているだけかもしれません。

そして2つ目が、教育改革には効果が出るまで時間がかかること。政府が新しい教育法を導入するよう全国の学校に通知しても、現場がそれに適用するには時間がかかります。例えば、授業内に討論を取り入れるにしても、まずは先生が研修を受け、授業の年間予定を作り直し、それに慣れるまでに数年以上用します。また、新しい教育法を初めから取り入れない先生もおり、退職するまで何十年も古い方法が残ります。これはフィンランド教育を見る上で重要な側面です。フィンランドが2000年に学力世界一になったからといって、それがその時点の教育法のおかげとは限りません。確かに、試験も宿題もなくしたら学力が上がったというのは大変面白い話ですが、この成果は実はもっと昔の古い教育のおかげかもしれません。

では、これを踏まえてフィンランド教育の時系列をもう一度よく見てみます。まず、フィンランド教育は元々集団主義的で中央集権型、どちらかといえば東アジアに近いような体制でした。そこから90年前後に宿題削減、試験削減、教科書検定の廃止、個性重視などの改革が行われ、より個人主義的で地方分散型の方向に舵が切られました。そして、フィンランドの成績が最高に達したのが2000年代前半。それから成績は加工の一等たどりました。2000年にPISAを 受けた15歳が小学校に入ったのは1992年です。この時点で改革が現場に浸透していたかは疑わしく、この世代は青改革前の教育法の元ではなんだと思われ、成績が一気に下がった2009年の世代が小学校に入ったのは2001年。これは改革から10年経って新しい教育法が浸透したと思われる時期と重なります。さらに、改革な影響を確実に受けたもっと後の世代の学力は急激に下がっています。つまり、1000年代諸島の高い学力は旧来の教育法によるものであり、90年代の改革は学力を上げたどころか、学力を下げた原因である可能性が高いのです。

ヘルシンキ大学で教育政策に関わるある教授は、「最初のPISAの結果は旧来の生徒と伝統による影響の方が大きい」、別の教授も「PISAの結果が教育制度によるものとすれば、何十年も続いていた中央集権的な制度によるものだろう」としています。

こちらの研究はPISAで低い成績を残した2012年と2015年の15歳を対象として、フィンランド教育の1番の特徴である生徒指導型学習がどのような影響をもたらしたのかを調査しました。生徒指導型学習とは、先生が一方的に教える教師主導型とは対照的に、生徒が自分で学ぶ内容と方法を決め、自主学習や他の生徒との討論を通して授業を進めていく形式です。日本でも先生だけが喋る授業は良くなく、生徒の参加を促し主体性を育む授業の方が良いと言われがちです。では、この生徒主導型は実際どんな効果を持つのか。

まず、先行研究によると生徒主導型学習は、大人が用いれば良い結果を得られるようです。しかし、子供に対しては効果がないか、むしろ学力低下を招くといい、実際ほぼ全ての学年で生徒主導型が学力を下げたとの先行研究が多数存在します。先行研究は「生徒問題解決型学習が本当に生徒の知識を増やすのに効果的であると高い確信を持っては言えない。むしろ教師動型学習の方が低学年の学習に効果的である」との結論で合意しています。この研究も独自にデータを分析したところ、同じ結果が得られました。

こちらのグラフは生徒主導型の授業の頻度と数学力の関係を表した図で、確かに生徒主導型を受けるほど数学力が低くなる関係が確認できます。さらには、家庭が貧しかったり、生活態度が普段から悪いといった恵まれない条件を持つ生徒と恵まれた生徒との学力差は、生徒主導型授業が増えるほど広がっています。要するに、生徒主導型は学力を下げるにとどまらず、学力格差まで広げているのです。

生徒主動型学習の悪影響は、学力調査を実施したOECD自身も示しています。PISAの公式の報告書には、科学的応用力の高得点と関連する要因が上から並べられています。これをよく見ると、生徒の自主性が求められる探求型学習は1番下のほう、つまり探求型学習をするほど理科の成績はむしろ低くなることが示されています。逆に、教師主導型学習は3番目に公成績に関連しています。探求型学習の度合と各国の点数をプロットしてみても、やはり生徒と指導型を推進する国ほど点数が低い関係が現れてます。

では、なぜ生徒指導型学習は学力をここまで下げてしまうのか。おそらくあなたもなんとなく想像できるのではないでしょうか。先ほどの論文は、生徒主導型学習が成り立たない理由を次のように説明しています。「生徒主導型学習を効率的に行うには、生徒の自主性、自立性、自己抑制力、集中力、自発性、柔軟性など様々な能力が必要である。生徒は学習目標を設定し、適した勉強場所を選び、勉強方法と進め方を計画し、課題の適切な順序を整理する必要がある。しかし、自立性が低い生徒は目標に従って自らの行動を律したり、生けた欲求を抑えたり、学習の進歩を管理することができない。また、自立性が低いと難題に直面した時にすぐに諦めたり、簡単で楽しい課題ばかりに取り組みたがる。」

フィンランドは生徒の自立性を生徒主導型学習を通じて育もうとした。しかし、元々自立性の発達は遺伝要因が大きく、80%は遺伝によって決まる。環境要因の役割は限られている。フィンランドはこの生徒主動型学習を90年代から積極的に取り入れてきました。従来の教師主導型学習は時代に即しておらず、もっと生徒の個性を尊重し、楽しい学校にするべきだと誰もが考えたからです。

「虫に興味がない子供もたくさんいますし、先生に翌日質問できるほど高い関心と計画性がある子供となるとさらに限られるでしょう。子供が外で遊ぶのには、それはそれで重要な意義がありますが、理科の学習の入り口、子供の自立性に任せていては学習を始めませんし、知識も偏ります。理科には昆虫や恐竜のような人気の分野もあるでしょうが、微生物や植物のような不人気の分野もあります。教師主導型学習の利点は、そのような生徒の自立性や個人的な興味関心に左右されず、必要な学習内容を一律に強制できるところです。先生の役割はただその科目を教えることだけではなく、生徒を席に座らせ、教科書を開かせ、必要な学習をさせることです。落ち着きがなく、他の生徒の集中を阻害する生徒を静止できるのも先生だけです。子供に自立性が不足する以上、足りない分を先生が補うしかないのです。」

これは宿題に関しても同じことが言えます。

「先生の理想に行けば確かに宿題は意味があるでしょう。的には子供がスポーツ、音楽、読書に愛しむとは限りませんし、ただ昼寝をしたりSNSを眺めて過ごすだけかもしれません。これは何より学力格差を広げる原因になります。自律性が元々ある子供ならば一人でも有意義な放課を過ごすでしょうが、そうではない子供もいます。親も同じです。ある親は放課後に子供を習い事に通わせたり、SNSを制限するやる気、余力、資金力がありますが、そうではない親も大勢います。宿題は学校が放課後の過ごし方を一律に拘束することで、全員に平等に有意義な時間を過ごせさせる手段なのです。部活、補習、委員会、夏休みの宿題も目的は全て同じです。」

昔から高い学力を安定的に維持してきた東アジア諸国で生徒の自由がないのは偶然ではありません。日本でも教師主導型学習は生徒の主体性を奪うから自由にさせるべきとの批判が昔からありますが、これは裏を返せば学校が生徒を放置せず責任を持って管理しているとも解釈できます。

フィンランドも90年代の教育改革の前までは東アジアと似たような体制を取っていました。元々フィンランドは国民性が集団主義的で、人々も内向的です。世界37カ国の国民性を調査した研究によると、フィンランド人はかなり内向的で、中国、日本、韓国、香港などの東アジア諸国と同じくらいの値を示しています。フィンランドは北欧の国として一括りにされがちですが、隣国のスウェーデンやデンマークとは民族的にも文化的にも言語的にも大きく違っていて、むしろ東アジアとの類地点が多く見られます。1980年代には「北の日本と欧米」と呼ばれていたこともありました。

フィンランド人の国民性は教育改革で個性重視と自由が叫ばれても根強く残り、改革からしばらく経っても多くの教師は昔のやり方を維持しました。あるイギリスの調査団が1996年、改革から間もない頃にフィンランドの学校を50校見て回った際にこんな報告を残しています。「生徒全員が教師の決めたペースで教科書に書かれたことを一行一業をたっている。美術であれ、数学であれ、地理であれ、子供たち全員が同じことを同じようにこなしている。我々は学校を点々としたが、どの学校でも授業はほぼ同じだった。もしあの場で教師を入れ替えても、子供たちは気づかなかっただろう。生徒中心の授業や生徒児童型学習が最近始まったと聞いていたが、それを見つけることはできなかった。」

しかし、フィンランドの教育法は時間の経過とともに、より個人主義的になっていきました。例えば、1994年から2010年にかけて、11歳から15歳の間で授業中に先生が発言を推奨してくれると感じる生徒の割合は36%から54%に増加し、そう感じない生徒の割合は31%から17%に減少しました。長年教えてきた先生も2022年に同じことを証言しています。「フィンランドでは教育制度が教師主導型から生徒主導型に移行してきた。私はこの変化に伴って教室の秩序が乱れてきたように感じる。我々は個人主義の文化を迎えつつある。これこそが学力低下の主要因であると思われる。」

親も個人主義的になりつつあり、ある教授は「学校への苦情が最近増えた」と言います。「少し前までは親が学校に苦情を入れる時はよほど悪いことが起こった時だけだった。しかし最近はそうではない。苦情が増えている。」フィンランドでは先生が自分の授業のやり方を柔軟に決められるので、教師主導型で進めようと思えば進められます。今日でもフィンランドの学校を訪問すれば、教師主動型の授業はよく見受けられますが、その数は年々減ってきていると言います。

ある研究者は学校を訪問した際、生徒主動型学習の不の現状を目の当たりにしました。「ある訪問すると、12歳の生徒たちが廊下で算数の自主学習をしているところを見た。『子供たちはこんな風に自主的に勉強するんです』。あんな役の上級生は説明を続ける。ただ問題は、見ての通り勉強を放り投げてタブレットで遊び始めてしまうんです。」私がそれがよく起こるのかどうか聞くと、彼は即答した。「いつも起きています。先生も気づいてはいるんですが、先生一人では全員の行動を統制できません。」私はこの件を副校長に尋ねたが、問題とは捉えていないようだった。「私たちは子供たちを信じています。教室の外であろうと勉強しているはずです。」廊下を歩きながら副校長がそう語った瞬間、ちょうど自主学習をしている生徒たちが見えた。まさに副校長の信頼を証明する絶好の機会だった。ところが、私が見たのは生徒たちが我々に気づいた瞬間、タブレットを慌てて机にしまう瞬間だった。その直前までタブレットで遊んでいたのは見るまでも明らかだった。

1996年にイギリスの調査団が訪れた際、50校を回ってもこのような光景は1回も見られませんでした。それが2014年には、たった1校訪れただけで目撃できたのは、やはり学校が大きく変わったことを示しています。別の研究者は、生徒主導型を積極的に取り入れる学校を訪問した感想をこう述べました。「生徒は確かに自立していて、それ自体は良いことなんだろう。ただ、彼らはとにかく数学ができないんだ。もう驚くほどひどくて、おそらく全国で一番悪いだろう。私はこれまで教育に関して、古いものは捨て新しいものを取り入れようと言ってきたがあの学校を見てからは慎重になった。」

主導型学習の実態を知った上で、フィンランド教育の清掃を改めて振り返ると、学力が急低下した理由にも納得がいきます。2000年まで続いた学力の安定的な上昇を牽引したのは、80年代前半まで行ってきた集団主義的で中央集権的な制度、質の良い公立学校を増やして全て無料にするといった地道な改善策、そして教師主導型学習でした。しかし、1990年前後からは全てが逆の方向に転換され、個人主義、地方分権、生徒主導型学習を取り入れた10年以上の時を経て、学力低下を引き起こしました。

フィンランド教育は2000年代初頭に世界中で絶賛され、学力低下を知らない人々からはまだ賞賛されていますが、結局のところ本当に絶賛するべきだったのは、改革前の、ある意味古臭い教育法だったのです。

日本と東アジア諸国の学力が概ね一貫して高くあり続けたのは、この古臭い教育を捨てなかったからかもしれません。日本は2000年の時点で3科目で8位、1位、2位。2022年でも3位、5位、2位と変わらず良好です。しかも、首位にいるのはシンガポール、マカオ、香港といった大都市ばかりなのに対し、日本は20倍大きな人口を抱え、学力が低くなりがちな田舎も含んでおきながらこの公成績です。

また、日本の学力が高いのは昔から一貫しており、1964年の時点で数学力が先進国で2位、1981年には1位だったことが記録されています。ただ、こういった国際学力調査で日本が公成績を取るたびに上がる批判が、「日本の教育は創造性を育んでいない」というものです。「日本人は盲目的に知識を溜め込んでいるから、知識を問うだけの筆記試験には強い。しかし大事なのは、そういった知識を応用して問題を解決することであって、日本の教育はその能力を育んでいない」という批判です。

しかし、これはPISAの中身を見てから論じる必要があります。というのも、このPISAという試験はまさに習得した知識を新しい場面において想像的に使う能力を図るために作られた試験だからです。PISAの責任者も「知識はGoogleの中にある。知識を使って何ができるかがこれからは」とよくある意見を述べています。

では、PISAは実際にどんな問題を出しているのか。こちらは2022年の数学的応用力で出された問題です。「下の表は太陽から惑星までの平均距離を天文単位で示したものです。3つの惑星の間の平均距離を示した下の図に当てはまる惑星はどれですか?」これは基本的な理科の知識と引き算ができれば簡単に解けます。表の中から距離の差が4.38天文単位の星であることが分かります。このように、PISAは単に惑星の名前や計算の仕方を知っているかではなく、それらの知識を応用して目的を達成できるかという想像性を図っています。

それでも、こういう批判があるかもしれません。「確かに日本人は知識を活用して応用問題を解けるかもしれない。しかし、それは学校で習う科目に限った話であって、実社会で求められる汎用的な問題解決の力はない。」「確かに惑星の間の距離を求めるといった問題は学校でしか出くわしません。大事なのは学校を出た後に現実的な問題解決できるかどうか」というのはごもっともです。

実はPISAはこの点も考慮して、問題解決能力という一般的な推論能力を問う科目も出題しています。これが実際の問題例です。「パソコンの画面にエアコンのリモコンが表示されます。取り扱い説明書がないので、あなたはリモコン上の3つのメモリと温度計、室時計を見ながら使い方を推測しなければなりません。あなたはつまみを動かしながらそれに伴う温度と湿度の変化を見て、どのつまみが温度と湿度に対応しているのかを探し出します。」もちろん、エアコン説明書なしで使えれば創造性と問題解決能力があると言えるかと言えば疑問ですが、少なくともGoogleと学校の知識に頼れない問題ではあります。実際に多くの企業は採用試験のSPIで同じような問題を出して、応募者が最低限仕事ができるかどうか確かめます。この問題解決能力で日本は3位でした。

また、興味深いのは上位を占めるのが全て東アジア諸国である点です。東アジアでは暗記ばかりやらされて勉強しかできない人が量産されると批判されがちですが、結局東アジア人は学校の知識が生きない場面でも結果を出せるのです。逆に、創造性を積極的に養おうとしているフィンランドや欧米諸国は軒並み点数が高くありません。

しかし、次なる批判として「個人の問題解決能力は高くても、日本人はコミュニケーション能力が低く、他の人と協力して問題を解決する能力が低い」というものがあります。PISAはこの点も意識して「共同的問題解決」という科目も用意しています。詳細は省きますが、パソコンを使って複数の架空の生徒と共に答えを探すもので、それなりに妥当な問題となっています。日本はここでも世界2位で、授業内で他の生徒との協力を活発に行うフィンランドよりも点数が上でした。そもそも日本人は授業内で反活動、放課後にも部活動をするので、他人との協力は不足していないのではないでしょうか。

次に、このような批判も検証します。「日本人は大学受験まではよく勉強するが終わったらやめるので、社会人の学力は他国と大差ない。」日本の大学生が勉強しないというのは事実で、アメリカと比べると1時間以上勉強する学生が少なく、全く勉強しない学生にいたっては1割に登ります。では、実際のところ日本人の学力がいいのは大学の前までなのか。

確かめます。まず、2000年のPISAで日本人の数学力は1位。続いて12年後に実施された大人向けの学力調査で、この世代の成績は2位でした。順位を大きく落とした国もあることを鑑みると、日本人は社会人になっても数学力を保っていると言えるでしょう。なお、16歳から65歳まで全ての世代を含めると、日本は読解力、数的思考力、ITを活用した問題解決能力の全ての科目で1位でした。日本人は読解力がない、ITに疎いとの不満がよく上がりますが、国際的にはそうでもないようです。

日本の学力は決して低くありませんし、確率的で想像性を潰しているという批判も間違っていることをデータは裏付けています。また、日本の教育に関する他の通説に関しても、国際比較を見る限りそこまで悪くないことが分かります。例えば、勉強のしすぎ。確かに学力が高いのは良いことですが、それが学生に多大な苦痛を強いることで達成されているとすれば良くありません。では、この通説は本当に正しいのか。週60時間以上も勉強する子供の割合を見ると、日本はむしろ下のほうに位置しています。東アジア諸国と比べても1番少なく、中国の1/4しかいません。日本の子供は世界的に見ればむしろ勉強時間が少ない方なのです。日本では昔は受験戦争が激しく、大学を目指す全ての学生が昼夜を問わず勉強をしていました。しかし近年、大学入試が簡単になり、難関大学を目指さない限り猛勉強をする必要はなくなりました。中国や韓国ほど受験競争が激しくなく、勉強時間が少ないながらも両国と同じくらいの学力を維持しているのは興味深いところです。

次の通説は「学校を楽しんでいない」。日本の学校ではいじめや不登校、子供の自殺が蔓延しているのが問題だという主張です。確かにこれらは大きな問題であり、全てゼロになるまで継続的に努力しなければなりませんが、一旦この側面について国際比較をしてみます。まず、単純に学校が楽しいかという質問に対して「楽しい」と答えた子供の割合で、日本は上半分にいます。学校の楽しさを全面的に重視し、世界幸福度ランキング1位のフィンランドは意外にも下の方にいます。また、日本はいじめが多いと言われがちですが、ほとんどいじめられたことのない子供の割合を実際に図ると、むしろ少ない方であることが分かります。もちろん、これに関しては子供が何をいじめと感じるのかという主観に左右されやすいので、単純に比較はできませんが、このような質問をされれば悪くない答えが返ってくるということです。より客観的な尺度で測れる10代の自殺率を見ると、日本は多くも少なくもない位置にいます。いじめ、不登校、自殺は大きな問題ですが、それはどの国にも存在するのです。

では、勉強を楽しんでいないという通説はどうでしょうか。あなたも経験上、身の回りに学校の勉強を楽しんでいた人をあまり見たことがないのではないでしょうか。その体感は当たっていて、実際に数学に対する興味の度合いにおいて、日本はかなり下の方にいますし、これに数学力のデータを照らし合わせると見方が変わってきます。そう、一般的に関心が高いほど学力は低いのです。これは先ほど説明した生徒主導型学習の欠点と一貫しています。普通、生徒の興味関心に沿って教えた方が成績は伸びると考えがちですが、現実的には生徒が関心を持つのは簡単で面白いことだけで、難しいことには最初から興味を持ちません。学力を上げるためには必然的に難しくてつまらないことを強制しなければならないのです。これはその科目に対する自信にも言えることです。数学に自信がある生徒の割合と学力を比較すると、もっと顕著な反比例関係が見られます。簡単な問題ばかり解いて次々に正解すれば、自分に数学力があるように錯覚しますが、実際に数学力があるのは難しい問題ばかり解いていて思い悩む学生です。関心も自信も高いに越したことはないのですが、これらを両立するのは元々難しいのです。だからこそ、日本の学校で数学の成績が振るわなくても、欧米に留学すると現地の数学の授業が異様に簡単に感じられ、一気に自信を取り戻す現象がよく起こります。

このように、教育の重要な目的は「努力は報われる」という心持ちを養うことだったりします。こちらの『学習格差 なぜアメリカの学校は失敗しているのか、そして日本と中国の教育から何を学ぶべきか』という有名な本は、日本人、中国人、アメリカ人の努力に対する姿勢の違いが学力差を踏み出していると言います。「アメリカの子供、教師、そして親は、成功には生まれながらの才能が必要であると、中国人や日本人よりも強く考えている。アジア人の子供は時間をかければ学校の勉強の習得につながると信じており、長時間勉強に努める。中国と日本では、成績が伸びないことに対して言い訳を許さない。そして、個人個人の今の成績がどうであろうと、成績向上は努力をもっとすれば達成できると信じて疑わない。試験の高得点は努力の証と見なされ、低い点数は才能の欠如ではなく、単に忍耐と努力の先にあるものをまだ知らないだけだと見なされる。」その証拠に、「試験は生まれながらの才能を示す」という意見に対して、アメリカの子供は強く同意した一方、日本の子供はあまり同意しませんでした。こちらでも、高得点を取るには努力と才能はそれぞれどれほど重要かを尋ねたところ、中国の子供は才能をあまり重要とは思っていないことが分かりました。アメリカの教師はとにかく生徒の落第を防ぐことに神経を使う。「才能がないと判断した生徒には難しい課題を与えて落第させる危険を犯すくらいならば、もっと簡単な問題を与える。」こんな状況で優等生と劣等生の学力格差をどう縮めることができようか。中国と日本の教師は子供の才能に応じて授業内容を変えたりはしない。その代わり、ついてこれていない子供にはもっと努力をするよう励ます。さらには、日本人の子供が努力を惜しまない姿勢は、筆者たちが行ったとある実験でも立証されたと言います。「我々はアジア人の生徒が難問に直面した時にどれほど根気よく取り組むのかを確かめようと思い、答えが絶対に出ない算数の問題で諦めるのかを図ろうとした。この検証方法に問題はないはずだった。ところが、実験を実施してくれた日本人の研究者は、数人の生徒に試した末に、我々にこの実験を中止するよう要請してきた。」何が起こったのか。なんと、日本の子供たちは最後まで諦めようとせず、研究者が子供たちにやり続けさせても良いと思う制限時間を超えてずっとその問題に取り組み続けたのだ。実社会でふさわしいかはともかく、成長が目的である学校では才能か親切、努力を尊ぶ心持ちの方が学力もついてくるということです。

以上のことから、もう一度よく考えるべきなのは「詰め込み教育はそこまで悪いのか」ということです。日本と東アジアの教育に対しては昔からこのような批判がなされてきました。「日本の教育は従順な向上労働者と軍人を育てるための体制から変わっておらず、時代遅れになっている。それに引き換え、フィンランドやアメリカの教育は生徒の主体性と個性を尊重するからイノベーションが生まれる。日本の教育ではスティーブ・ジョブズやGAFAは生まれない。インターネットや人工知能が発達した21世紀には知識よりも創造性が重要だ。」

これには様々な反論があります。まず、子供に主体性を求める危うさ。主体性を育てるという理想は大変重要ですが、それを放置する口実ににしてはなりません。フィンランドはまさに主体性を育てようとして生徒指導型学習を実行しましたが、結局生徒は簡単で面白いことを主体的に選んだだけで、学力も格差も悪くなりました。アメリカの主体、生徒、個性を尊重する方針も、裏を返せば才能のなさや望ましくない個性まで放置して見捨てる口実になっています。そして、アメリカは教育のおかげで創造性が育っていると言いますが、実際のところそれは逆に才能と実績のあるものを最大限尊重する風潮のおかげではないでしょうか。ただ、結局この風潮を最も活用できるのも移民やアジア人というのが実態で、例えばアメリカの理系ノーベル賞受賞者の40%はアメリカで初等教育を受けていない移民。また、アメリカで最も裕福な人種は勉強ばかりしているアジア人です。

そして、アメリカではスティーブ・ジョブズやGAFAが生まれているというよくある言説は見方を裏返す必要があります。つまり、アメリカ以外ではスティーブ・ジョブズやGAFAが生まれていない。GAFA並みの大きなIT企業が生まれていないのは日本とユーの問題ではありません。日本よりも創造性教育を重視しているヨーロッパでもGAFAは生まれていません。iPhoneの登場によって衰退した企業には日本企業ばかり注目されがちですが、最もこの煽りを受けたのは当時世界最大の携帯電話メーカーNokiaでした。ちなみに、フィンランドの企業です。

日本の詰め込み教育が創造性を削いでいると言いますが、実際日本よりも詰め込み度合いが高い中国や韓国でも、世界的IT企業は育っています。し、これらの革新技術を生み出したのも、確率的で暗記ばかりしてきたはずの日本人です。要するに、経済というのは様々な要素が影響し合った結果であって、教育のせいで落ち込むわけでもなければ、教育を変えれば改善するという単純なものでもないのです。もし学力が高い人材がいても経済が震わしければ、改善するべきなのはその人材を生かせない経済状況です。日本人は想像力がないのではなく、想像力を生かしても儲からない経済状況に置かれているだけなのです。かつて、フィンランドも相当高い教育水準を誇っていましたが、経済的には決して豊かではありませんでした。

また、知識と創造性を対立的に見るのも誤りです。なぜなら、想像力は知識量に依存するからです。創造性とは知識と知識を結びつけることであって、知識量が多いほど想像力も基本的に高まります。例えば、ダーウィンの進化論を下支えしたのは、自身が世界各地で収集した膨大な数の生物の情報でした。モーツァルトはピアノ協奏曲第9番で初めて注目を集めましたが、これより前に作ったピアノ協奏曲の多くは他人の作品の模倣でした。知識量が創造性に関係ない証拠としてよく持ち出されるスティーブ・ジョブズですが、ジョブズの技術革新を支えたスマホ、マウス、タブレットなどは他の企業が発明したものでしたし、タッチパネル、マルチタッチ、Siriなども元々米軍が開発した軍事技術でした。ジョブズはゼロから何かを生み出したのではなく、これらの膨大な知識を吸収した上で組み合わせたのです。

また、知識が創造性の源泉であることは、暗記詰め込み型の東アジア諸国が軒並みPISAで高得点を取っていることが示しています。応用問題が解けない場合にまずやることは、基本問題に立ち戻ることです。同様に、想像力に真に必要なのは、その土台となる知識なのです。

もちろん、PISAで計測する創造性は本物ではない、本当の創造性を測るためにはアメリカやフィンランドの教育を導入する必要があるという批判もあるでしょう。PISAで点数を取ることが目的になってはなりませんし、アメリカとフィンランドから学ぶべき要素はたくさんあります。しかし、改めて先ほどの問題例を見ると、基本的な計算であったり、常識を問うような問題ばかりです。このような問題に正当できなくしてまで育てる創造性とは一体何でしょうか。このような正解のある問題に答えられない国民が、果たして正解のない問題にも答えを出せるでしょうか。

実際、ここ数十年の日本では、この「本当の創造性」という誰もはっきりと定義できない能力を高めるために、いくつもの教育改革が行われてきました。「とにかく知識延長は悪いことだから、今すぐ脱却して、これからの時代に求められるであろうコミュニケーション能力や問題解決能力、想像力を養う教育に転換しなければならない」という焦りが蔓延してるのです。しかし、一旦立ち止まってよく考えるべきです。これらは本当に新しい能力なのかと。

教育学者の中村孝安氏は、この点についてこう指摘しています。「私は新しい時代に、コミュニケーション能力や協調性、問題解決能力などといった新しい能力と言われるものが、これまで以上に必要とされているとは思っていない。誤解を与えそうなので急いで補足しておくが、現代においてこれらの能力が不必要であると言っているのではない。ただ、それらはこれまでも求められていたし、これからも求められるであろう、ありふれた能力であって、新しい時代になったから初めて必要ないし、重要になってきた能力などでは決してないということなのである。今人々が活動しているのは、新しい能力を求めなければならないという議論そのものである。」要するに、コミュニケーション能力や問題解決能力はいつの時代でも求められてきた普遍的な能力であって、21世紀になって突然重要性を増した特別な能力ではないということです。

かつては知識や学力ばかりを求めていたが、インターネットと人工知能が発達した最近では不要になってきていると広く信じられていますが、実際のところ知識延長はインターネットが登場する遥か以前から問題視されていました。例えば、列国大百科の弁士、弁士さんは昼夜問わず勉強ばかりしているせいか、対人能力が低いことが特徴で、気になる女性からの手紙を添削して返した行動を着れずに笑われる場面があります。あるいは、ちびまるこちゃんのまお君も物知りですが、周囲から浮いてしまっているガリ勉キャラとしてあまりいい扱いを受けていません。さらに昔に遡って1930年の就職対策本にも「三流ではどういう人を採用するかといえば、言わずもがな人物本位である」という似たような記述が見られます。かつてはガリ勉は高く評価されていたけれども、最近では勉強だけではダメで、人間性とかコミュニケーション能力などの非定型な能力が評価されるようになりつつあるとか、受験戦争で知識の詰め込みばかりやってきた連中は変化の激しい今の時代では通用しないといった議論を、さも最近の新しい傾向であるかのように語る言説に私が引っかかりを覚える理由を分かっていただけるかと思います。要は、かつて本当にまお君のようなガリ勉は無条件で高い評価が与えられていたのか。そんな時代は本当にあったのかという疑問である。

日本で叫ばれている教育改革の前提には、この求められる能力が最近急速に変わりつつあり、今の日本の教育はそれを養えないという焦りがあります。共通テストへの記述式の導入は知識だけを問うのは古い。大学入試での民間英語試験導入や小学校での英語必須化は単語や文法学習は古い。推薦入試は学力よりもやる気と非認知能力が大事。アクティブラーニングは暗記より他人との話し合いの方が大事。この流れはフィンランドの教育改革とよく似ています。

ある新聞記事は、このような創造性教育の負の側面を報告し話題となりました。「時計の計算が分からないんです」小学3年生の千鶴が訴えてきた。「そんなはずはないだろう」と思い、2時34分の56分後はと難しめの問題を出してみたら、「そういう問題はどう解けばいいのか分からない」と。教科書に「そうと3時まで何分かかるか考えるんだよ。何分で3時ちょうどになる?26分。56分のうち26分が過ぎたら何分?30分。もう答えが出たでしょう?3時30分か。そうやって解くのか。分かりました」ちずるは喜んでいるが、今度は私が腑に落ちない。「この程度の問題を学校でやっていないのだろうか。算数の時間には何をしているのと聞くと、授業では1秒って何かを話し合ったり、それを模造紙に書いてみんなの意見をまとめたり、時間があると何が便利か調べたり、時計がない時代はどう暮らしていたのか考えたり、そういう授業だったのか。」授業研究は大事だが、普通の授業を省かないで。

これは生徒主導型学習が生徒を放置する典型的な例です。知識習得がおろかなままだと、いくら議論しても実りのある答えは出てきません。もちろん、これは極端な例ですし、文科省も知識習得を決して軽視しているわけではありませんが、やはり生徒主導型学習と知識習得の両立がいかに難しいかをこの例は物語っています。

教育を急いで変えなければならないという脅迫観念は、他のところでも無理のある教育改革を起こしています。例えば、東京のある公立中学校は2014年に子供の自主性を伸ばすとして、宿題や定期試験、担任制、制服、体操服を一斉に廃止しました。しかし、何年かして学力が低下し、学力格差も広がったことを受け、改革の多くを元に戻しました。まさにアメリカとフィンランドで起こった失敗がそのまま繰り返されています。自主性を伸ばす教育の実態が、自主性がある生徒を伸ばす裏を返せば、自主性が元々ない生徒を放置する教育であることが改めて浮き彫りになります。改革の斬新さばかりが注目され、その結末は報じられないところまでフィンランド教育とよく似ています。

このように、日本の教育は問題だらけだから急いで大きな変化を起こさなければならないという表層官に似ているのが民主主義は問題だらけという主張です。チャーチルはかつてこんな格言を残しました。「民主主義は最悪の政治形態である。ただし、過去の他の全ての政治形態を覗いては。」民主主義や資本主義は確かに血管だらけで、とても完璧とは言えない体制です。しかし、だからと言って革命を起こして独裁性と社会主義に行けば、より良い結末に行きつくとは限りません。かつてソ連は西側諸国よりも高い経済成長を達成し、西側の人間は独裁性と社会主義の方が優れているのではないかと焦りましたが、結局ソ連は別の問題を抱えていた上に長期的成長に失敗しました。一方、民主主義、資本主義の国々は様々な問題を抱えながらも、比較的悪くない結末を迎えました。基本の体制は保ちながら、小さな改善を積み重ねたからです。

日本の教育に関しても同じことが言えます。確かに日本の教育は問題だらけで完璧とは程遠いですが、他の国々と比べれば決して悪くありません。一時期、日本の教育はフィンランドより劣っており、焦った日本人は教育に改革を起こし、フィンランドのような教育に一気に変えなくてはならないと訴えました。しかし、最終的に学力が落ちたのは日本ではなくフィンランドでした。完璧と思われる教育法にも副作用があることに誰も気づけなかったのです。

教育を改善することを議論する場では、ほぼ必ず「改革」という言葉が持ち出されます。日本の教育は最悪で、小さな改善では到底足りないから革命的な変化が必要と思われているからです。軍資金が不足した投資家ほど、掛けに出るのは焦っていてリスクを考える余裕がないからです。教育改革を連発する近年の日本はいわば、資金があるのに不足していると思い込んでいる投資家のような状態です。今大事なのは、現状の教育に比較的余裕があることを認識し、落ち着いて小さな改善を積み重ねることではないでしょうか。例えば、宿題を一気に廃止するのではなく、現状の出し方を少し変えてみたり、全ての授業を討論形式にするのではなく、知識が十分定着した学期末だけに導入したりです。このように慎重さを失わなければ、今の良さを維持しながら欠点を埋められます。

欠点は日本の教育に決してないわけではなく、中には明らかに他国に劣っており見習うべきものもたくさんあります。例えば、先生の待遇。フィンランドでは昔から先生を特別に尊敬する文化があり、教師になるには修士号を取得し、倍率10倍の採用試験を突破しなければならないほど人気の仕事です。一応、こちらの調査によると日本の先生も学力ですでに大体の国を上回っているようですが、教師を魅力のある仕事にして損はないでしょう。この点で、日本教育で数少ない致命的に悪い側面が先生の労働環境です。こちらの調査によると、日本先生の労働時間は非常に長く、2位を大きく引き離して第1位です。フィンランドから学べることは多いでしょう。

もう一つが機会の平等です。フィンランドでは公立校の割合が圧倒的に多く、大学まで全員が完全に無料で通えるほどの学校でも同じ質が保たれています。実のところ、フィンランド教育で最も絶賛されたのはこの徹底した平等性です。フィンランドは80年代に欧米で積極的に進められた教育への市場原理の導入に真っ向から反対したおかげで、高い学力と平等性を両立できました。平等差が教育に重要であることは、世界の識字率の違いにも現れています。この地図上では青が濃いほど識字率が高いことを示していますが、よく見るとロシアとその周りの国々が軍を抜いて濃い色をしています。通常、識字率は貧しいほど低くなります。そうであれば、ベラルーシア、ウクライナはどちらかと言えば貧しい国ですし、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンに至ってはすぐ隣の国々と同じくかなり貧しい方です。にも関わらず、識字率には明白な差が生じています。この識字率の壁の正体は旧ソ連量です。ソ連は世界に先駆けて教育の平等を推進し、国中どんな田舎であろうと、再三度外で学校と図書館をとにかくたくさん立てました。国の発展のためには、そして共産主義思想を広めるためには、誰もが文字を理解できる必要があったからです。旧ソ連諸国の異常に高い識字率は、極端に平等な教育の賜物だったのです。

もちろん、ソ連ほど極端にしなくても良いというのは言うまでもありませんが、学生本人には変えようがない生まれつきの属性や環境の影響は小さく、それに越したことはないのは本当でしょう。これは単に恵まれない学生がかわいそうだからではなく、国全体として努力が報われる風潮、要するに「やればできる」という言葉への信頼を維持した方が、長期的には学力も維持できるからです。

一応、日本も社会階層の成績への影響を参照する限り、平等性においても特段悪いわけではなく、フィンランドと並ぶくらいですが、今後どうなるかは分かりません。近年は一部の大学で女子と浪人生を一律減点する不正入手が発覚したり、性別によって合否を左右する形式の入試が増えたり、学力よりも経験を重視する入試形式、そして中学受験が増えています。また、政府が大学園の交付金を削減した結果、そのしわ寄せは学費値上げという形で学生に行っており、経済に恵まれない学生に不利になっています。これらは全て「やればできる」の信頼を損ないます。今次々と実行されている教育改革は、10年後、20年後に答え合わせの時がやってきます。果たして日本はフィンランドと同じ鉄を踏まずに済むのか、注視する必要があります。