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大学の質問コーナーです。質問です。遊びの中で子供は成長していくというような内容の動画をいくつか拝見しました。子育てをする中で生まれた疑問なのですが、大人が何かの意図を思って子供に何かをやらせたら、それはもう遊びではなくなるような気がしています。親が環境を整えることは有益にも思えますが、一方で遊びだからこそ得られるものが得られなくなるのではないのでしょうか。また、この矛盾の中で親が子供のためにできることはどんなことなのでしょうか。たさんの考えをお聞かせいただけると嬉しいです。
最高のセンスですね。ここのね、このご質問をされるってことは、え、これはですね、ま、非常に興味深くですね、ま、私のある週、自分の哲学の根幹でもありますけど、遊びっていうのはですね、私の中でとっても大きいものなんですね。
遊びと言いますとですね、これは、え、ヨハ法人がっていう方がホモルーデンスっていう本をですね、もう100年以上前ですけど書かれていて、これがま、ある種遊びを体系化した最初の哲学書だという風に言われてます。ま、その後それを回収して、え、ロジカオはっていう方が、え、何でしたっけ、遊びと人間ですかね、というのを書かれて4分類をするわけですよね。で、このホ神河が言っている遊びの特徴の中の1つに自由であることっていうのがあるんですね。自発的と言い換えてもいいかもしれないです。つまり、自らそれを遊ぼう遊んでいるということですね。それをしなければならないからやっているわけでもなく、そうすべきだからやっているわけでもなく、それを自分がしたいと思ってからしていると。ところがこれをですね、親が誘導してですね、そのようにするように促していくと、結果として本人が自由なようであっても、外から促されているという点で遊びではないんではないか。これが多分ご疑問のところだと思うんですね。これも全くこのご指摘の通りで、え、非常に多いですね。子供たちに遊ばせるというでから遊びとは自由な活動であるっていうのと、もう1つ保人が言っているのは、遊びは目的がその中に内包されているって言ってるんですね。で、これちょっと言い方変えてみると、簡単に言うと遊びは遊びのために行っているってことなんですね。何かのために遊ぶ遊びは遊びではないっていうことです。学びのために遊ぶのが大事ってよく言いますけど、ま、そうなんですけど、遊んでいると学んでしまっていたに近いんです。学ばせるために遊ばせると、いうのはですね、すでにそこで義務や義務が発生してますからね。昔講演会で遊びが大事ですよっていう非常に教育熱心なとこでお話したらですね、お母さんがその後来られまして、え、遊びが大事ってのよく分かりました。このうちの子に今塾色々言ってますけど、1日1時間ぐらい空があるので、ここで遊ばせようと思います。どんな遊びがいいですか?お母さん、それもうすでに教育の中に組み込まれちゃってるでしょっていう話があったんですけど、ま、そんなことなんですね。
つまり遊びっていうのは親からの視点で言えば、それ無駄になっても構わないっていうことなんですね。もう少し言えば、それをやっている時のその子供の心の動きがふわっと表情が晴れやかで夢中になったり、あの、なんて言うんでしょうね、清々しいような顔してるような、それが遊びなんですよね。ま、友達と喧嘩してもあるでしょうけど、だ、やっぱりそこ、それそのものが目的でなんま、ある種無意味であるっていう無意味であるからこそ非常に大きな学びであるってのが遊びなんだろうと思うんです。で、これどういう風にアプローチしたらいいんだろうか、っていうことをおっしゃってると思いののご疑問に答えたいと思うんです。まず方法論から行くとですね、とはいえ完全に何も無いところで遊ぶことっていうのは子供は実は難しいんですね。やっぱり何かきっかけが必要になると。できっかけは多くの場合環境ですよね。どのような環境に行くと遊び出すのかと。で、ところが環境をですね、完全に整えるとですね、つまりプラなんかありますよね。プレールっていうかね、この自転電車があるやつ、あれのレールまで設計して、さあ上に電車乗せれば動き出すよってとこまでやっちゃうと、これ完全にお膳立てされてますよ。これじゃダメなんだと。で、一方でプラレールもないところで電車遊びしたらって言うと、これなかなか難しいわけですよね。つまり外の環境にそこそこに、ま、揃ってるっていうか、そこそこに材料をありながら自分でその組み合わせる余地がある、みたいなことがいかに設計されかっていうのが、私は遊びの大事な要素なんだろうと思うんですね。なので、え、なんて言うんでしょうね、答えはないんですけど、その設計具合ですねが大事だと。ところがここに、この子に英語を学ばせたいから英語の遊びよってやったら、もう遊びからすでに外れてるわけです。ね。つまり、ま、なんて言うし、学んで欲しいことで遊ぶとは限らないっていう、これをもちゃんと受け入れてない大人はうまく子供を遊ばせられないわけですよね。学んで欲しいことを学ぶだけに遊びは大事なんだっていう言説は世の中にいっぱい触れてますけど、遊びって無意味なもんなんで、遊びながら学べるので、学びに効率がいいんですっていうのは、もう遊びから完全に逸脱してるわけです。でも、ま、そういう手法がののも分かるんですけど、まだから遊びっていうのはどうなったって構わないっていうことなんです。
でもう少し良い方法を実は見つけることができ、それ何かって言うと、大人が子供を楽しませたいと、まさっきみたいにね、子供に学ばせたいっていうもありますし、もうちょっとそうじゃなくても子供にただ楽しんで遊んで欲しいと思って、それで一生懸命子供に遊ばせよう遊ばせようという風にやっていく場合がありますよね。もこれも、ある程度うまくいくかもしれないんですけど、でももっと良い方法があって、それ何かと言うと、大人が遊んでいるってことなんですよね。で、ま、確かに私たちも考えてみてください。私たちの周りに自分を谷しまようとお膳立てしている人が、こうやったら楽しいんじゃないですか?こうやって楽しそうです?ってやってくれてるその存在が見えた瞬間に興ざめしますよね。なんか自分を喜ばせるためにカラオケを盛り上げているけど、その本人、盛り上げてる本人はそれを義務感からやってるっていうか、そうすべきだからやっているとしたら、なんか興ざめしませんか?それよりは率先してカラオケを歌って、その人自身が楽しんでいる方が、なんとなく私も遊べる気がしますよね。この遊びっていうのはですね、周りがお膳立てされていると気づいた瞬間に覚めるもんなんですよ。ということは、大人自身が遊べてるかどうかが、子供が遊べやすい空気かどうかに非常に大きく影響を与えていて、大人が子供を見すぎると子供は遊べなくなるっていう、ま、こういう矛盾も判んでるわけですね。観察されている時に遊ぶのって難しいですから。人間が観察者不在であるっていうのは、まあ非常に、ま、子供気づきにくいですけども、観察されていることでも、これがこの影って言んですかね、大人が子供を見る時によかれと思って大丈夫かなって不安に思ったり、学んでるかなって向ける目のまなざし自体が子供の遊びを阻害しているちょっとの要因になって、ま、小さい時はまだ別なんですけど、要因になっていて、大人も大人でその遊び空間の中にドブと入り込めるかどうかは、私は非常に重要な気がしてるんです。
で、ま、さらに根源的なことで、少しまご質問ずれると思いますけど、なぜ人を遊ぶの かって、これ生き物も遊ぶんですよね。で、人間は遊ぶ生き物だって言いましたけど、これこ、あの動物もいろんな遊びやるんですけど、人間の遊びってのはどう言えばいいんでしょうね。うん、仮想バーチャルな空間を想像しながら、その中でロールプレイしてるみたいなところがあるんですよね。例えばスポーツ見てる方多いと思うんですけど、スポーツっていうのは、えっと、ある空間を想定しながら、なんて言うんでしょうね、チャルであることを知っていながら本気になってるわけですね。つまりボクシングとか、これ殴り合いで相手を倒すぞっと思いながら、ルールの中に自分を押し込めてもいるっていう、なんかこういう感じなんですね。私熟達論の中で遊びの説明の中に、あの事を書いたんですね。それはある砂場で遊んでる子供がこう土を持ってですね、はい、カレーライスよって渡すと相手に。で、相手があ、カレーライスだって言って、本当に食べちゃったらどん引きですよね。土、それはカレーライスのふりなんだからって子供は言いますよね。で、一方で、え、これ本当のカレーライスじゃないじゃんって言って、土でしょって言ったら、これも興ざめですよね。つまり遊びっていうのは、それが嘘であると、挙行であると知っておきながら、その挙行の中に自ら入り込んでいって、その中でロールプレイしていくってことが遊びで、そのように見ると、あのオリンピック自体が全部ある種の挙行空間なんだけど、その強行空間の中で選手たちがみんな一生懸命になってるからこその面白さがあるわけですね。ま、これ私の遊びの構造だという風に思うんですけど、これやっぱりできないんですよね、人間以外には。なぜならバーチャルな空間を作って、そこでロールプレイするっていうことなので、だからそこが私は遊びの人間が遊ぶ中の非常に大きいものなんじゃないか。そこが学習を生んでいる1つの、なんて言うんでしょうね、文脈とその文脈に沿った振る舞いとか、そのずらしとか、そういうことを学んでいくための非常に良いシステムになってんじゃないかと思うんです。
でもう少しさらに生き物はなぜ遊ぶのかに入って行くと、これはまさに私たちがこう世界と出会った時ですよね。多細胞生物になって、この多細胞生物が世界と出会う時、え、こう食う食われるの関係って言うんですかね、エネルギーを外から摂取する、誰かのエネルギーになるってこういう関係ができているわけですね。そして私たちは動き始めるわけですね。動いて、で、その時に結局、まあ資格もないわけですけども、身体において外界をなんかで触覚か何でもいいんですけど、なんかセンサーがあって、で未知の世界に自分たちを動き出していくっていう、このこと自体が生命の態度であったっていう、ま、確かこのフランシスコバレラが言っている話はこういう話だろうと思うんですけど、私からすると遊びっていうのは、未知の世界に自らをいっていき、その新しい環境に自分を適用させるようなロールプレイシミュレーションの繰り返しが、私は遊びなんじゃないかと思ってるんですね。ま、その昔の原子の状態よりはもっと複雑な世界、複雑な文脈ある世界の中で、自分はどうやってそこに馴染ませていくかっていうことの、ま、えが遊びが生まれた背景だから、人は生き物を遊びたがるんじゃないかなっていう風に思ってるんです。
はい、ま、色々お話がありましたけど、遊び、子供の遊びを作っていくってのは、え、簡単なようで難しい、難しいようで簡単だ。つまり、どうや、何が遊びで何が設計なのか、何が人工的に設計された環境で何が自然なのかって いう問から、最終的に、え、最も人工的なのを私が遊ばせようとしているこの私の視点であり、その中に自分がドブと入った瞬間に、ある種の最高の遊び空間が出来上がるという風に私は考えてます。