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教育とはなんでしょうか?

為末大学 Tamesue Academy7:59

Transcription

たせ大学質問コーナーです。たせさんは教育にも増しって言うんでしたっけね。これ造形が深いとお見受けいたしますが、エデュケーション教育の語言はラテン語のエデュケレで、エセラはEとデュラにえ、あデュケラでいいんだな。エデュケレのEとジュケイは外へ、リュケは引き出すという意味であることはご承知かと思います。すいません、ご承知じゃありませんでした。つまり、教育とは教えるのではなく、元々持っているものを引き出すということになりますが、このことに関して何かお考えがおありでしょうか。

すでに答えになっていたらすいません。はい、あまこれ教育は非常にね興味深いんですけど、私はやっぱ教育に関して2つずっと考えてる問がありまして、ま1つはですね、え、教育とはそもそも何なのかっていうことですね。そして教育は本当に可能なのかっていうことですね。で、教育とはなのかっていうとですね、例えば昨今であれば、え、まオンラインの学習とか進みまして、でオンラインの授業の内容がYouTubeとかにポンと乗ってるわけですね。で、それ見ながらふんふんなるほどと学んでいくわけですけども、ちょっとそれに近いこと特集でですね、日経新聞とかニュースピックスやったりするわけです。果たしてじゃメディアと教育の境い目は何なのかっていうと非常に曖昧なわけです。え、ある情報を与えることによって人に知識を提供ししたり、人が学ぶ機会を提供すると意味では、あ、実はほとんど違わないことがあると。ま目的は違うんでしょうね。おそらく人を育てるっていうことと、適切な情報を考える情報判断する、まある種メディアは成熟した相手をイメージしていて、教育ってのは少し未成熟なものを想定してるわけですけれども、でもあんま関係ないですね。今や私あの、まテクノロジーが進化していろんなものを混ざり合った時点で、過去に定義されたものは再定義されていくっていう風に思っていて、ただ文化的なおしがあるので、教育はやっぱここまでですよっていう私たちのある種の思い込み、過去の経験から来る思い込みが制限をかけてますけど、これ取っ払うともはやメディアと教育の境い目はないわけです。

で、私は教育の定義っていうのは、まじゃメディアとこれ全く一緒だとすると、ま情報によって人を変えるってことになりますよね。ま変えるまでいかないかな、情報によって人に、ま学びの機会を提供するになるんですけど、私は教育はまもう少し踏み込んでいいかなと思っていて、コミュニケーションによって人を変えるっていう風に言っていいかなと思います。まメディアもある種のコミュニケーションなんですけど、もうちょっと相互コミュニケーションっていうか、相互のやり取りが頻発にありながら人が変わっていくことが教育だという風に思っています。で、まずこれによって教育とメディアを私は分けたいと思ってます。

でもう1つは教育は可能なのかっていうのがこれ非常に興味深い問いで、まよく言われますけど、あの水に連れて行くことはできても水を飲ませることはできないっていうあれと同じで、やっぱり教育もですね、その機会を提供するところまで行けても、本当にそれで学ぶかどうかは本人次第ってところがあると思うんですね。あんまり教育再度がそれでもうサを投げても良くないんですけど、でもやっぱりできることってのは限界があって、え、まそこまで行くしかない。でもこれ限界がないと思ったら思ったでまた厄介でですね。なぜなら必ずこの人を成長させねばならないっていうことがほとんどのハラスメントの背景にあったりするわけですね。ま力みなわけですよ。この人を成長させるにはやる気がないのをやる気を出させて学びたくないのを学ばせるってことをやっていくんです。で、実は私はこれが聞く時もあると思っていて、日本の平均値の高さってのは若干この強引に強制的にみんなを一律に学ばせてるから、世界一式事率高い国ですから、これだけの人数いてそれできてんじゃないかと思うんですけど、一方で自由にしたら学びたくない人の自由を大事にしなきゃいけなくなるんで、当然格差広がるわけです。だあんまりあのね言わないですけど、私自由にすることってのは格差が広がるってことを承認することであの自自由で自発的な学びっていうのは伸びる人は伸びて、そうじゃない人を救い上げ仕組みがなくな るってことだと思ってます。ですので、ま私は基本的には考え方としては一定の強制と自由で自発的な学びってのは合わせ技だと思います。まいずれにしても教育は可能かっていうと非常に難しい問いで、私もはっきりしたものはないなと思うんですね。

で、この引き出すっていうものが何なのかって言うと、なんて言うんでしょう、私はいざに近いような形が教育なんじゃないかなと思うんですね。このえの教育の5元まで遡るとですね。で、引き出すってのは要するにどういうことかって言うと、私たちてこのある週一定閉じられたシステムなわけですね。私たちのこの身体がまま口からお尻まで繋がってるんでちわ上ではあるんですけど、まある程度のえ身体であると。一方で外界何かこれ取り込むとですね、胃の中でそれが消化されて身体に伝わるっていうことは私たちと世界もまた繋がっていて、それほどへたれてもないわけです。米とか本来こう違うはずの物質がこ口に入れるとそれが身体の一部になるわけですから、まそういう意味でま我々と外の関係ってのは常にあるわけです。でも一応閉じられたシステムであると。で、このシステムに何らかの刺激をすると、その刺激に対して反応するんだろうと思うんですね、私たちが。で、何もないまま反応するってこもある、あの動き出すってこともあるけど、これを私たち自発的ってイメージしてるんですけど、でも本質的に自発的な行為があるかって言うと非常に怪しいわけです。何しろ我々生まれるところすら自分の力じゃないわけなんで、非常に他力的に生まれてきてると。だから多くのことはま国文小一郎さんさがおっしゃるように中道体的っていうか、外の刺激に対して対応する自分が動くと外も動くっていうこの外とうちのこの閉じられたシステムと外の間のゆらぎみたいなものがえ、ま私たちの本来の姿なん。モチベーションもこういうことなんじゃないかと思うんです。

で、このエリュケレを極め突き詰めていくと、この閉じられたシステムに対して外から働きかけるんだけれども、それは生ぜのであると。コンコンとノックをする程度である、またはこっちの水甘いよっていう程度であると。まそのようにしてやっていく中に何かが引っかかったし、この刺激には引っかかったて時にうちから出てくるものがあって、出てきたものをあ、出てきたなと思ってするするっと引っ張っていく、まこういう関係がコミュニケーションっていうか、このエデュケレなんじゃないかと思ってるわけです。だ決して外から提供できるものではないんだけどうことはできるんじゃ ないかという風に思ってます。で、このだ非常に繊細になるわけです。そうするとノックなんで強くやると壊れちゃうし、小さいと相手に響かないし、叩き方で相手が伝わる伝わんないもあるかもしれないっていう、このやり方がま今後も今までもそうでしたけど、今後の教育に非常に重要なえセンスになるんじゃないかと思って、ノックセンスって言うんですがね。これが実は挑発がいい人もいるわけです。あそんもんなんだって言われると興奮する人もいるしいろんなノックの仕方があって、それをあの教育者自身のキャラクターにも影響されるしま、そういった風に引き出していくっていうのが教育なんじゃないかなというのをこのエリケレから伺った内容から思いまし。

え、こちら皆さんの質問で成り立ってますので、こんな感じの質問いただけると非常に考えるきっかけになってありがたいです。是非ご質問をいただければありがたいです。