Transcription
皆様、本日はイエス復活祭並びに春期期待祭、おめでとうございます。春になると容気のせいか忘れっぽくなるというのは誰も言ってませんね。忘れっぽさを春のせいにしちゃ失礼ですね。まあ、の忘れ物を私したことがありましてね。ま、どなたもあるかもしれないけれども、電車の、電車の網棚、今網棚って言わないんですか?ね、神じゃないから荷物棚って言うんですか?荷物棚に物を乗せたまま駅で降りてしまって、気がついて、それで「ああ、しまったな、忘れたな、困ったな」てえ思いながら、えっと、がっかりしたことがあります。本当にそれを2回ばかりしたことがありまして、もうそれには懲り懲りでね、もうなるべくあの品物は膝の上か前の机の上に置いておくという風になるべくそうしています。
え、電車っていうことで言いますと、私大昔に、あの若い頃、教団のあの職員で、在来線で、あの熱海に通ってたんですね、通勤してたんです。朝のね、朝の支度が大変、急いでしまって、起きてすぐ支度をして、え、大急ぎで家を出て、それで、え、走って駅まで行って、駅の階段を上がって、また駆け降りて、それで、え、電車に飛び乗って、すぐドアが閉まると、そういう生活を毎日続けていました。それであのある日、え、事務所で、え、トイレに行きましたらね、洋服がちょっとおかしいなと思ったんです。ね、そしたら、洋服に、洋服ズボンの、ズボンの下にパジャマのズボンを履いてたんですね。ちょっとびっくりしましたね。であのズボの裾を見たら、パジャマのズボは、パジャマのズボの裾は出てなかったんですね。いや、助かったなと思って、だからまあそのままずっと1日過ごして、で、家に帰って着替えますよね、着替えますと、ズボをねえ、洋服のズボを脱いだら面白いことになってましたよね。上は上着、Yシャツ、ネクタイ、ピッとしてた、下がパジャマ。笑われましたよね。そういうですから結局朝、え、着替える時に急いでいて、ズボ、あ、パジャマのズボはず、脱ぐの忘れて、そして、え、洋服のズボン履いてしまうっていう、そういう忘れ物っていうんですかね、しましたね。
それから、こないだ、あの床屋さんに行った時にねえ、床屋さんのスタッフが私のズボンの後ろの方を見ながら、「岡田さん、そんな可愛いマスコット好きなんですか?」聞かれたんですよね。「マスコット好きなんですか?」で、自分のズボを見ましたらね、後ろの方見ましたらね、分かったんですよね。それ何かっていうことが、それ私、あの家であの固定電話がありましてね、固定電話でそれぞれがあのみんなあの呼吸を持ってんです、呼吸をで、私は呼機にストラップをつけて可愛いマスコットつけてるんですね、いつもその後ろのポケットに、右側の後ろのポケットに突っ込んでずっと生活してるんですね。ですが、そのままそれを呼吸を取らずにそのまま出かけてるってことは分かって、「あ、しまった」と思ってね、ま、ちょっと恥ずかしい思いをしました。
それから、忘れるって言えばね、こないだ、夢を、夜に寝て、そして夢を見たんですけども、夢がぶやけてるんですよね。金眼ですから。それで気が付いたんです。「あ、メガネをしないで寝ちゃったな」と思って。それでその夢の登場人物に「ちょっと待って下さい」って言って、それであのすぐ起きて眼鏡をかけて寝て、続きを見ました。誠に、あの春の眠りから覚めないような寝ぼけた話をして失礼いたしました。
本日の採点行事につきましては、ここグランド日光東京大場の皆様より確別のご理解とご協力、また数々のご配りをいただきまして、開催させていただくことができました。ここにグランド日光東京台の皆様に熱く御礼申し上げます。誠にありがとうございます。
誠に恐れいことではありますが、唯一の神の競輪、すなわち創造種のご計画は、すでに私どもの中に存在する天国という原因の世界において成し遂げられております。このことについて名主様はお歌に「人の目に見えねど神の競輪はすでに成り蹴り玉の世界に」玉は霊という字を使っていらっしゃいます。「人の目に見えねど神の競輪はすでに成り蹴り玉の世界に」となり、神の競輪がすでに目に見えない霊の世界である天国で成し遂げられていることを告げ知らせてくださいました。そしてその神様の競輪の目的は地上天国建設であることを名主様はお話しになりました。地上天国建設とは、神様が地上にいる私どもを全てのものと共に天国に迎え入れ、ご自身の意識と融合し、天国と地上を1つものとすることであると思います。それは私を1人1人に当てはめてみれば、名主様が名主様ご自身が恩民を持ってお示しになりましたように、1人1人が全てを携さえて天国に立ち帰り、神の子たるメシアとして生まれることであります。それはすなわち神様がご自身に似た者になることであります。
そのために神様は想像をおはめになる前の天国において、万物となる霊と共に人間となるべき多くの霊の子を創造されました。そして多くの霊の子の中から1つを選び、それをメシアとしてくださいました。物と私どもとは天国においてすでにメシアに結ばれた一体の存在であり、神様の1つ体であったのです。神様は想像の初めにメシアに結ばれた私ども霊、私ども霊の子にご自身の命と意識と魂を授け、私どもをお使いになって万物、元素を地上に出されました。そして最後に私どもを地上に送り出してくださいました。と申しましても、天国から離れているのではなく、天国という濃い密度の世界の中の一部として、天国に包まれて存在している地上という新しい密度の世界であります。神様が万物を地上に出されたのは、万物をお使いになって私どもの感覚器官を作り、そして自我を作り、私ども個性ある1人1人という個々別々の存在とするためであります。そして1人1人意識あるものとなった私どもを再び天国に迎え入れ、ご自身と一つとするためであります。私どもに永遠の命を授け、私どもと共に永遠にお住みになるためであります。
私どもに永遠の命を授け、私どもと共にお住みになるためであります。神様が私ども意識ある個々別々の存在とされたということは、神様は私ども1人1人の思いを大切にしてくださっているということです。神様はご自身の思いが私どもの思いと合致するよう努力しておられるのです。しかしながら、私どもは地上に生まれた時から目に見える現象の世界で懸命に生きてきたために、自分が天国で生まれ神様の思いを感じ取っていたことを忘れ、また命と意識と魂が自分のもののように感じられたために、思い上がり神様に背いて生きていました。神様はそうした罪を犯した私どもをそのまま天国に迎え入れることはできません。なぜならば、人類が世に生まれて以来、積み重ねてきた罪が私どもの血液の中にあり、人間の力では到底その罪を拭い去ることなどできるはずもなく、神様と人間との間にできてしまった隔たりを取り払うことは不可能だからです。
だからこそ神様は大いなる慈しみを持ってイエスを世にお使わしになり、人類の罪のあがないの印としてイエスの血をお受け取りになり、私どもが犯した罪を償い、清め、許してくださいました。それだけではなく、イエスを死の淵の中から蘇らせ、復活させることによって万物を更新し、滅びの世界にいた私どもを救い出し、永遠の命に生きるものとして蘇らせてくださいました。神様はイエスを通して万物と一体である人類をその罪から償い清め、救い、蘇らせてくださいました。なんと恵み深いご経輪、ご計画でありましょう。
ここで私どもが知らなければならないこと、思い出さなければならないことは、神様はキリストイエスと共にあがないと救い、そして新しく生まれさせるという再生の御業を天国という原因の世界においてご自身の御業として成し遂げてくださったということです。神様は原因の世界において目的をお立てになっただけではなく、結果もお持ちなのであります。そして無限の世界である天国で成し遂げたあがない、救い、再生の御業を有限の世界である地上に投影しておられたのです。映し出しておられたのです。地上、あるいはと言われる現象の世界は時間と空間が存在する世界であります。私どもは時間と空間と神様からお預かりしているのですから、私ども1人1人が今神様が天国で成し遂げられたことを認めなければなりません。私どもは1人1人恩恵こそあって許され、蘇らせていただいたものとして世に生まれさせていただけたことを認めなければなりません。
もう1度申し上げます。私どもは1人1人恩恵こそあって許され、蘇らせていただいたものとして世に生まれさせていただけたことを認めなければなりません。恩恵こそあって神の子たるメシアとして新しく生まれること、新しく生まれることができることを認めなければなりません。このように天国で成し遂げられた結果が今の自分自身であることに気づくことができたならば、その結果を自分のものとするのではなく、自分自身を神様の想像の御業の結果として神様のところに持って帰ることによって、初めて神様の御計画、御業が自分の中で成し遂げられたと言えるのではないでしょうか。
先ほども申しましたように、あがないと救いと再生の御業は神様の1つの御業であります。ここで私どもが確認しなければならないことは、神様の御計画の目的をこう生むことであり、言い換えれば私どもが蘇って新しく生まれる、すなわち再び生まれる、再生するということであります。私どもは十字架のイエスというと、私どもの罪を償うために貼り付けの刑に処されたイエスというイメージを持ちますが、神様は私どもの罪を償うためだけにイエスを十字架にあげられたのではないのです。万物を更新し、私どもを新しく生まれさせるためにイエスを十字架に上げられ、死の淵の中から蘇らせ、復活させられたのであります。私どもは神様がイエスを世にお使わしになった目的を決して見失ってはならないと思います。
このことについて聖書には、「もしキリストが蘇らなかったとしたら、私たちの宣教は虚しく、あなたがたの信仰もまた虚しい。あるいは、もしキリストが蘇らなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなた方は今なお罪の中にいることになる」と記されております。またイエスご自身「私は蘇りであり命である。私を信じるものはたとえ死んでも生きる。私は蘇りであり命である。私を信じるものはたとえ死んでも生きる」と述べておられます。イエスのことを名主さんは食材主と王勢になられました、それだけではなくイエスの復活をお認めになっておられたと思います。だからこそ名主様は新しくお生まれになったことをご発表になった時に「メシア教団」と言ってね、「メシアが生まれたわけです。言葉だけでなく事実がそうなんです」と断言され、新しくお生まれになったことを私どもが、私どもが事実として受け止めるよう強く促されたのではないでしょうか。
私どもは恩恵によって死と滅びから救い出され、蘇らせていただいているのです。万物を更新し、神の子として新しく生まれるためになり育てていただいているのです。そしてその恩恵による祝福を蘇りの息と共に全てに分け与える御用にお使いするために今世にいるのです。私どもが今までの自分を父や母、先祖の方々と共に、万物と共にメシアの皆さんにあって神様に委ねさせていただくのは、神様が私どもに過去の精算後始末だけをおさせになりたいからではありません。私どもの思いと呼吸をお使いになって想像の御業を成し遂げようとしておられるからです。先祖の方々も万物も、全てのものが新しい命に蘇り、未来に向かって前進んで欲しいと願っておられるからであります。私どもは忘れてしまっていた自分の始まりの世界を思い出し、全てに大きな愛を持って望んでくださっている神様に感謝しつつ、祈り、職、音楽という真の救いの3本柱の実践にさらに一層励ませていただきたいと思います。
また昨年、アフリカ、アングラの知事に誕生した土の聖地の建設方針が始まり、火の聖地であるメシア聖堂の建設予定地が定まったことに続いて、この度、めでたくブラジルの水の聖地の建設予定地が定まった今、私どもは天国の意志としての地上の聖地の建設にあらゆる力を注がれた名様の尊い御心を改めて胸に深く刻み、メシア聖堂の建設に向けて精一杯、多くの人々と共に、自分に内在する天国に常に心を向けることができるものにならせていただきたいと思います。神様がすでに天国で成し遂げてくださったメシアの皆さんにある祝福が、イスラエルに結びつく全人類とその父母、先祖の方々、これから世に生まれる子供たちに、そして万物を分け与えられますようにと、吐息数域迫域のうちに定め、未来を想像する御業にお使いさせていただきましょう。そのようにお使いすることを許してくださっている唯一の神に、メシアの皆さんにあって権威、栄光、祝福を捧げさせていただきます。ありがとうございました。