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“悟る”とはどうなることか?『お寺』の定義とは。仏教と科学。工場跡地にあるお寺で松波龍源さんに訊く。【前編】

古舘伊知郎チャンネル55:32

Transcription

非常に画期的なところにやってまいりました。京都の北道寺という実験寺院にお邪魔することが、ついにご縁でできました。

ここをやってらっしゃるお隣に、すでにもう鎮座されておりますけど、松波竜玄さんに、いろんな仏教関連の私の興味があるところを、わがままながら聞かせていただきたいと思ってやってまいりました。よろしくお願いいたします。どうぞよろしくお願いいたします。お願いします。

いや、まず入っていただいてびっくりしたのは、あの普通お寺大ガラン、古き畳のタ。これ、あのジムに来たのかと思ったね。あのジムマット。これはあれですか、やっぱり星座した時に、そして祈る時に、あんまりこうしれないようにってことですか。柔らかくじゃないですか。

そうね、あのここお寺と名乗ってます。ま、お寺の定義について後でお話したいですけど、はい。もも織り物場なんですね、ここは。西陣廃業された織り物の場をお借りしまして、ま、ここ僕たちがお借りした、入居した時にも廃墟だったんですね。ええ。で、床もボロボロであの、なんだろうな、瓦礫状態。うん。だったんですね。あの織機の基礎から剥がして撤去されてたので。それでもうどうしようもないっていうので、一番安く整備できる方法っていうでコンクリート流したんです。ね。だ、この下コンクリートなんですよ。え、めちゃくちゃ痛いんですよ。痛くて。で、ブグとか落とすと確実に割れるので。で、さらに我々は、あの武道の教室もここですることがあって、はい。コンクリートの床か大変危険なので、ええ。なんとかならないかと。で、じゃあ物アンド人間、色々考えて壊れないように。はい。まあまあ板をね、貼りたかったんですけど、ちょっと予算的に無理。はい。一番リーズナブルな方法で見場も悪くないのは何かって考えた時に、このウレタンマットで。ウレタンマット、柔らかいし温い。色もこう、こういうね、あの炭色っていうかね、綺麗ですよね。意外と良かったというですね。

いや、意外と、かなりいいし、やっぱり松並さんが変な巨匠は当たり前だけどなくて、いや、板張り、金がなくてっていうところが、もうすでに仏教的ですよね。そうですね。ありのまま、で、なんとかなしましょう。なんか人間って、僕なんかにも見えとか、外聞とか、食のいやらしいところがあってもう、ほと悪人症。季節行くんです。どれだけ自分の悪を認めて安心しようとしてのかとうん。けど、どっか見張っちゃうんですよ。全くないんですね。そういうところ。ないわけではないですけどね。もう、あ、ここが正直でいないって言うかなと思ったら、絶対言わないですよね。人間ですもんね。生きてるとか、わかります。はい。どうしようもないので、はい。みんなにとって一番いい方法を選ぼうっていうことしかできないですよね。

あの仏教の素晴らしいところって、名言うとどうしようもない、思い通りに行かないってこと素直に認めるところから始めようよっっていう。そしてファっといい感じの教外開けるよっっていうとこあるじゃないですか。はい。もう日本国内で悔しいっていうのもまた仏教的じゃないんだけど、正直言っちゃうと人間として悔しいのは、仏教のイメージが全然そう取られてない。そうですね。もったいないことだと思います。国際だの選挙だの葬式仏教だの、なんかこうまだか。だから実験寺院の意味ってあるのかもしれませんね。そう思います。僕はとしね、これからの日本、世界をいく、かなり大きな可能性を持ってると思うんですね、仏教が。はい。でも今、全然機能してないようにも見えるわけですよね。はい。じゃあどうしたらいいんだろうってなった時に、先行事例もないし、ロールモデルもないし、どうしていいかわからないので、じゃあもう仮説を立てて実証実験をして、フィードバックして、仮説を立て直してっていう、ま、この本当に実験のプロセスっていうのをこう進めていくしかないじゃないかという。

で、これね、松波さん、意外と一般の人ってか、じゃ自分はいっぱいじゃなくて出血したのかって話でいつも苛まれちゃうんですけど、分かりやすく言うと、多くの日本の人が仏教と今でいうその、え、実験によって運動法則を見出していって、証明される科学のアプローチ。これがぐーっ、今近づいてきてんだよっていうことに関して、は理解しない人多い。そうですね。ま、こっちの説明が悪いんだと思うんですけど。え、科学は科学でしょって、科学しか信じないから無宗教だからっていう、科学原理主義になってる人と、それから仏教宗教でしょっていう、に、それだけでアレルギー反応を示す人、と、っていう、に、こう区分けしてくと少ないんですよ。そうですよね。ま、やっぱ日本はこう、効果不効果、歴史の生殺で仏教っていうものがこういうものになっている。そこはま、必然があったからそれでいいと思うんですけど。じゃあ、それ今が気に入らないんだっ たら、気に入らないって言ってる時間で何かしようっていうのが、僕、それこそお釈迦様のやり方かなと思う。で、なるほど。そうか。僕みたいにブーブー不平不満を言う暇があったら、実践してみようと、トライアンドエラーやってみようってことですよね。そうですね。もうそれしかないな。ていうか、僕はだからそういう意味ではね、ナブなのかもしれないです。もう、やだって、こんな世界に来てるのやだし、文句言ってても変わんないから、じゃあまか、うん、てみようっていう感じです。そうか。また教えられた。僕はね、なんで仏教のことをみんなね、遠ざけようとしてんのかなっていう、阻害感から、結果、なんで分かってもらえないんだろうっていう、不平不満を言うことで、自分は大丈夫って思いたかったのかもしれないです。今の話聞いてて思いました。もう、やだったらやるしか、ない。そうですよね。文句言う前にね。

今日来て、この報道でびっくりしたのは、あの若い女性の方が生き生きとさえっていうか、そういうものをお召になってこうさっと仏教的佇まいで迎えてくださるじゃないですか。はい。すごいですね。あの、ありがとうございま。別に僕何も教えてないですけどね。はい。あの、あんまりこう定住する、あるいは束縛される家を持たずに有業する、放浪しながらてい釈迦のごとき女性が自然と集まってきたとこってありますか。そうですね。特にやはり、もう20代半ば学生さんだったり、女の子の方がしかも多いですね。な、なんでしょうね。なんででしょうね。やっぱりお話聞いてると、特に学生さんはですね、はい。これ、から自分は就職しなきゃいけないと、就活、友達もやってるし、私もするとはい。でも、就職活動をしながら、私はこう、これでこういう世界にこれから何十年、死ぬまで生きていくの。で、その第一歩をここから選ばなきゃいけないのかってなった時になんか嫌な気持ちになると、どうしたらいいんだろうっ て。なんかやだん で、自分自身もじゃあ何ができるんだ、どんなアイデアがあるんだって言ったら、いまい、よくわからない。うんで、これきっと何か、何かかが違うよねと。で、何かがあるよねっていうことを考えた結果、やり、その思想とか哲学っていうところに興味を持つようになり、いろんな人に話を聞きに行ったり、いろんな勉強したりする中であれ、これ仏教っていうのが実はものすごく可能性あるんじゃないかって思ったと。で、たまたま僕の情報に触れていただいて、友達がね、友達呼んできたりして、でお話をして、じゃあちょっとここ通っていいですかとはい。僕はそうやって人が通ってきて、その思想とか哲学、生き方みたいなもの、何かヒント得られる場所がお寺っていうところだと思うんですね。日本人って今現状、お寺行きますって言うと、何しに行くかっていうと、大体観光なんですよね。観光か法事か葬式かてですね。ま、それはもちろん必要な機能で、ま、立派なことなんですけど、お寺っていうイメージが、うん。例えば説明される時に、この寺院は総見800何十年の歴史で、本尊は京波仏師の手によるこう、国のね、重要文化財の何とかでっ ていう、それ場所の話なんですよね。物の話を。してる。で、僕はお寺ってそういう建物とか物じゃなくて機能なんじゃないかと思うん ですよね。あの会社で言うと、あの本社っていう概念に近いかなと思って。本社が別になんだろう、その西新宿の40回立てのビルじゃなくてもいいはずなんですよね。機能が果たせば。お寺も一緒だと思って。ここは、さっきも言いましたけど、西陣織の工場跡地の賃貸の建物なんですけれども、そこがどんな機能を果たしてるのかっていうので、僕寺足りえると思うんですね。本来寺はそうでしょう。お釈迦様の時代は少なくともそうだったと思います。あのちり少女、祇少女含めて、瞑想する、トレーニングする場所が与えられ、一切生産活動は自分たちはやっちゃならん。そうじゃないと、自分と同じように汗を垂らして働いて、苦しみ喜びを感じている人の、同じな説教は、はい。まさにその在の人に向かって釈迦に説法になっちゃうから、全く今で言うとコですよね。はい。ホームレスような状態で、自分たちはいつ死んでもいいような状態で、行って、あまりもをもらいながら説教する。そのスタイルですよね。はい。なんと かそれを現代の日本で、え、寄せることができ ないか。そのまま絶対無理なんですけどね。なんとかお釈迦様のそのグランドデザインですよね。こういう構造体が実は狂人、はい。意味を果たすんだ。ていう釈尊が作られたそのシステムを、なんとかこの日本で機能させることができないだろうかっていうのが、僕らの実験のかなり大きな部分なんですね。

うわあ。いや、ここは来やすいですよね。それでやっぱり機能だっていうことで言うと、ここは知らない方には是非、本もまだ読まれてない方に是非伝えたい。あのお墓を管理するっていうような段制度も含めたね、こういう日本の大場仏教が付いてからの一、もちろんになってから物記者とかとんでもないことがあったと僕は思ってますけども、とりあえず一連のずっと流れの中で、やっぱり文化制度でちゃんとお金が入ってきて、宗教法人で税の優遇があってっていうのと、全然こ違うじゃないですか。実験道場、実験人。まず宗教法人として税の優遇はないんですか。えっと、我々は社団法人なんですよ。そうですよね。だ、ないんですね。宗教法人にしてないわけです。してないです。そしようと思えば、は信言シュ最大で修行されてできるわけじゃないですか。あ、その前、松並さんは悟ったんですか。ちょっとこれ是非期待。もう、これかなり難しい質問いきなりき。まず、は悟りとは何かっていう定義の話ですね。はい。仏教っていうのは古来、お釈迦様の時代から、その言葉に対する定義を極めて大切にする考え方の伝統だと思ってるんですね。その我々が何かを認識するためには、人間である以上、名前がつかないといけない。で、そのた、名前をまた操作概念として使って、何か意味を伝えていくわけです。で、その定義されている名前のついたものとか、あるいは動詞ですよね。何々をするとか、そこに対する認識がずれたまま話をすると、全くこれ意味がない。なので、で、しかもこれ厄介なことに、我々日本人という民族はですね、めちゃくちゃいい部分もあるけど、悪い部分もあって、すごいふわっとするんですね。だ、今お聞きいただいた、悟ったんですか。悟りっていに対して、明確なあ、悟ってこういう意味で使ってますっていうことをピシャッと、言える日本人って多分あんまりいらっしゃらないですよね。勝手ないイメージ概念、自分なりの切り取った概念で捉えちゃいますからね。いや、だけどごめん なさいね。これ言い訳なんですけど、やっぱり見てる人、聞いてくれてる人に分かりやすく、みたいなことで言葉ってのは確かに僕は言葉使って商売48年やってきました。だ、からつくづく思うんですよ。言葉と巨じゃないですか。あるしフェイクじゃないですか。でも、その言葉を使わなきゃ、その心理、そうですね。解脱する、悟るっていうことにもアプローチできないという矛盾を変えながら、言葉を使わしてもらってるっていう、さなれんですよね。だけども、聞いちゃいました。でも、聞いちゃったことは戻せない。教えてください。じゃ、定義を教えてください。はい。まず、2つ考え方があると思います。常仏教的な悟りの意味と、大の言悟りの意味っていうのが、ちょっと違うんですね。あ、そこ教えてください。はい。まず、のっていうのは、区からの解放なんですね。生きているっていうことは、もう全てそこに苦の種があるという言い方を、お釈迦様はなさってる。で、このくっていう言葉もまた定義が大切で、ふわっと取られるとよくわからなくなる。苦しばっかじゃない。喜びもってんだ。喜びもくの元だし。そうなんですよ。世の中で生きるってことは、全然思い通りにならないよっていう意味の区なんですよね。はい。もうシ白くという言葉が、ま、一番ベースにあるわけですけど、さらにそれ をですね、ガチャとまとめると、望んだものが得られない。これが食。そして拒絶したいのに、強制付与される。これが食。この2つに集約するわけです。で、考えたら雨が食べたいのに雨がないっていう極めてしょうもないことなんですけど、それも食なんですよね。で、あ、このハンバーグ美味しいわって、今くは ないように見えるけど、もっと食べたいのに、もうない。これも望んで得られないっていうことだから。で、食べすぎると満腹だわって、これ苦なんですよね。先輩がいてね、もっと食わせてくるとか、体育会でよくりましたけど、そのあらゆることに自分がコントロールできない、自分が嫌なのにとか、越したいのにっていうことが隠れてる。それ が苦。それを認めろっていうのがまず第一歩なわけですけど、その苦から脱却する。で、これもまた誤解が日本では多いところだと思うんですけど、なくなりゃしないんですよね。脱却克服っていうのは、区がこれちょっと専門的な言い方になりますけど、成就しなくなる。要は身を結ばなくなるっていう言い方を、お釈迦様されてると思うんですけど。食は あるんですよ。ハンバーグもっと食いたいの に、もうない。お金もない。これで終わり。くそじゃなくて、しょうがないねと。まさに先ほどね、お話出てました。諦めるっていう。諦めるっていうネガティブなギブアップで はなくてですね、明らかにした結果、それを望んでも望むべくもないことを理解して、オケてなるのが諦めるという意味ですから。本来の明らかに見極めるといってみですね。そうこと。そうなることができれば、あらゆる区が自分に襲いかかってきたとしても、それを自分の心が受け付けなくなる。熱いなかわんな。まあ、潮がるまいとお腹減ったな。まあ、仕様があるまいとうん。これはこうしたいんだけどうまくいかないな。ま、因果関係の結果、そうなんだからしょうがない。こうやって区が報いなくなるっていうのが、え、荒かのくいと言われます。これが100%完了した人が下達者アカと呼ばれる。で、これが上座部の悟りっていう概念。それはでも一方で見ると、別批判じゃないんだけど、自分がから救われるとっただけで、人を救おうとはしてない。まだ段階っ ていうことで。まさになんですよね。これ私もミャンマーで色々修行させてもらいましたけど、ま、いろんな先生いらっしゃいますけど、多くの人、見本になればいいとおっしゃるわけです。修行をして、その苦のレベルが下がって、脱に近づいていくっていう姿を皆に、見せて、皆の見本となって、私の後をついてくる人が増えれば、それで世界は救われるだろうという考え方をなさってる。ま、確かにそれはそうだと思うけど、けどですよ。やっぱりそれがね、見習ってやろうって思う人がどれだけ出るのか。そこが問題だって、いうのがこれまた大場の話になってくる。そうですね。だからどっかその上座部、上座説仏教っていうのは、若干エゴイスティックに見えるところがあるん ですよ。自分だけ救われればいいっていうか、自分はこれ釈迦はこう言ってないっていうことの釈迦原理主義に陥りすぎて、釈迦はね、中道解いたはずなのに、社会以外の受け継いだ人たちが、やっぱり人間だから、こういう風に言葉で囲い込んで、これを認めないで、こっち側を信じればいいんだって、どうしてもね、どっかにもう本当に申し訳ないけど、たいだけど、分かりやすく言うと、あの、上座説仏教ってのはどっか兵庫県の斎藤知事みたいな。自分としては間違ってないっ て。うん。そうでしょうよと。だけど、人を救わなきゃしょうがないよって、苦しみのよの切実さの中から大場ってことになる。そうですね。あの、高度に構造化した方が楽だし、ずれにくいっていう事実はあるんだけど、その硬い構造っていうのはやっぱりこう、即応力がないというか、柔軟性を失うっていうのがこう、トレードオフになりがちなので、そこがま、問題で。そうですね。それで、じゃあ上座説仏教、上座仏教に関しての悟りっていうのは、自分がクスから解放される。これをま、首とする。そ。はい。もう一つ、大場は。これ僕がですね、本当にちょっと話がずれたとこから行きますけど、僕信言密教なので、はい。攻防大子の根本定生の1つですね。促進成仏というこの4文字を考えるわけです。はい。はい。これがどういう意味なのか。ま、多くの人は好み、このままブッダになるという言い方をしてる。成仏するんだ。このの役に、僕ちょっと問題があると思っていて。あ、でお時間があったらそこもお話したいですけど。でも、まずですね、その好み、このまま置いとい て、仏になるいっていう。じゃあ、なるべき仏の意味が何なのか。仏様にな るってどういうことが、まさに悟ったんですか。っていう話にもつがるわけですけど、仏となるっていうのはどういう状況を持って仏となすという定義がないと、目指せないんです。そうですね。はい。で、これがわかんない。どんな先生に聞いても、なんか僕が納得する答えを答えてくれた方が日本にはいなかったんですね。どこの目的地に行くかの目的地 のイメージがなくて、どこを歩いていくんだって話です。目指しよがないんですよ。はい。はい。これがのにに行きなさいって言われて、ちょっととわからないですよってなるわけです。はい。で、そこでですね、たまたま僕がそのミャンマーですごくお世話になった、ま、偉大な先生がいらっしゃるわけですけど、ま、生きじきみたいな人です。本当にはい。一人いらっしゃった。そう、三蔵師ですね。私が言った当時、13人のその三蔵と呼ばれるですね、もう最高のその仏教の知識保持者がいた。その中の1つっていうクと、それから像ですね。と、え、ロゾですね。3つの要はテキストの塊りですね。論ずること、素晴らしい点を学者のように研究し尽くすこと。そして立っていうのは律ですから、まさに法律の率ですから、ルール、各あるべき修行者はこうやって自分をいましめて悟っていくんだっていう密筋、この3つですね。三。はい。それに成通した方のお1人に伺ったんです。え、ミャンマーにおいて、ブッダの定義とアカの定義。これ両者悟ってるはずなんだけど、言葉が違う。で、定義が違うはずです。よと。この2つの定義の差について、僕はよくわからない。教えていただけませんかと。言ったら、もうパッて答えてくれたです。瞬間的に。その先生がおっしゃるには、個人のその人の苦しみをその人として下出することができた人をアカと定義する。そして、悟ってない普通の人間をアカのくらいに導くことができる人をブッダという。これが違うんだと。あ、この煩悩かもしれ ないに、言葉を使って見事に方便、心理の方便としてそうやって分けて説明してくれたん ですか。はい。はい。であ、その瞬間、僕はもう目の前の霧がさーっと晴れたような感じ。なるほど。と、公房大師がおっしゃってる促進成仏というのはそういうことかと。あ、つまり、あなたの身のあり方に即して、他の人々に教えを解いて導いて、手助けをして、あなたが向き合った人の中から、苦しみっていうものがなくなっていくということが実現し、なら、ばあなたは新たなブッダです。うんだから、仏になることはできますと。公房大使が促進成仏はできるって言ってるのは何もですね。うん。こうなって五行がぶわっと刺して、空中不をして、肌が金色になって、そういう話じゃなくてもっとリアルな話を多分なさってる。僕は思ってます。うん。人から苦を抜くことができる。その人がアカではなかった人がアカに近づいていく。そしてその人が本当に完全にあかになった瞬間、その教えを解いた人は、そのアカになった人にとってのブッダとして機能しているっていうことなので、完全にリタが極まっていく世界にブッが存在します。そうこと。この2つの定義なんですね。つまり、自分自身の区が成就しなくなったということが観測されているか、1つ。これが一番ベースになる悟りの定義。もう一つは、あなたが向き合ってる人たちの中から、苦しみが減っていくという現象が起きているのか。これが2つ目の大場的な定義。この2つで私が悟っているのかどうか。と、え、いう問いにお答えするとすると、え、道半ばですけど、私は悟りの道を歩んでるっていうのは自信を持って言うことができると。え、ちょっとあの野郎時代ですけど、思います。ああ、なるほど。そこに行きつきまし。たね。で、悟るってのは本当に松波さんおっしゃるようにはい、終わったゴール。一生涯悟り切ったまんまていうんでもなく、生みのにね、肉体引きずってまた煩悩欲望割愛が出たりするし、それをそのたび潜たきとは言いませんけど、抑え込む力を得ているというか、常に悟っていく道筋のプロセスを、結果とか原因の前に、このプロセスを悟るってい風に捉えた方がいいっていうのは、すごく今、そういう風に思っていいですか。はい。もうおっしゃる通りだと思います。有名、なあの半屋信行という点が、ま、これも諸説ありますけど、解いているのがまさにそこだと。はい。あのゴールしたと思った瞬間、そこはもう悟でもんでもないと。そうじゃなくて、私 は悟の道を歩んでいる。その道から外れていない。立ち止まってもいない。進んでるっていうことが、もう悟ってるのと意味的に は一緒だろうと。一緒だ。なんから日本語がまたね、難しいとこなんですよ。悟ってい るって言うと、悟ってんですか。松さん、悟ってないんですか。て、とんでもない僕は質問しちゃいました。しかしながら、悟っているって聞いた時にINGで、ちょっと英語導入すれ ばいいですね。そう、キープウォーキング。て、なんかどっかウィスキーみたいになっ ちゃうですけど。い、でもほんとそういう状態ですよね。そうですよ。もうそすごく納得できました。はい。本当10100ではなくて、パーセンテージグラデーションだと思うんです。そういう意味では、僕はかつてよりも自分自身で、そのうわ、これ嫌だなっていうことは確かに減ってるなって思うし、私の周り、関わってくださってる方々があ、なんかいろんなことが分かりました。心が楽になりましたっていう人がいるので、なので、僕はその道を歩めてるだろうなていう。いや、だってその1人ですもん、私。ありがとうございま。物質な質問して、一生懸命語ってくれて。あ、そういう風に言葉で区分けする方便って大事だ。その奥に心理があるはずだと思い始めてるわけですから、今ね。本当にそれは松波さんのおかげだって素直に今思え。んで、同時にですね、もう一つまた意地悪な自分がありまして、その僕がね、大場素晴らしいなと思うんだ けど、生焼きですね。大場のなんたるか分かってないくせに、僕の勝手なイメージで大場をこういう風に捉えちゃってるとか、2つあるんです。あの1つは、僕はあの、うん、絶対存在が信じられないんですね。あのキリスト教的絶対存在が。だから、神仏っていう超越存在、全ての宇宙の場を作りたたような、そういう存在が、え、全知全能の存在が、ちょっと信じられなくて、ま、科学の影響もあるのかていうこともある。釈迦は今、大場仏教的には釈迦無物ですけど、仏ですけど、釈迦はそういう絶対超越存在、魂の永久保障も認めてないですよね。永遠不滅で穏の世界を生きく、絶対的な何かっていうものは認めてないです。全ては因果の法則と演技の法則で関係性で織りなしていくんだって、ま、簡単に言って申し訳ないんですけど、そう捉えてますよね。だからそこが非常に科学的に、うん。宗教っていう言い方が良くないなら、僕は釈迦の哲学だと思っていて、どう生きるか、どう苦しみから内的世界を旅して悟る方向に動いて、なんとか苦しみを半減していくか、っていうことの素晴らしいトレーニングをやった思そだと思ってるんで、そこでこうぐーっと釈迦の押し活を僕は続けてんです。よね。出家もしないで、中途半端な欲望まみれの大場野郎が、もうそういう風にっ てるんです。どっか心理をICチップのように側頭用に埋め込んどけば、自分があまりにもひどくなって暴走した時に、少しは踏みとまれるだろうみたいな自石保険のように、とんでもないこう釈迦仏教を使し てるんです。それからするとですね、その大場仏教的な物質があるんだと、みんなだから悟っていく道筋にみんな行けるんだっていうね、人間存在どっかに仏が隠れてるっていうのは、ちょっと信じられない感じがある。すると、どんな風に教えてくださるんですか。それ。そうですね。これもいろんな立場があって、いろんな先生がおられるので、はい。僕まして学者ではないので、1つの信号密教の実践者の立場と、だ、1つの視点だというところであの聞いていただきたいんですけれども、それは僕はやはり信言の党ですから、信言密教のえ、教説から引っ張ってきたいと思うんですけれども、今まさに、おしゃられたように、仏教っていうのは絶者っていうものを、ま、こう言葉がややこしいですけど、絶対否定するんですね。はい。そんな、え、唯一絶対孤立にして永遠の存在っていうものは、ちょっと論理的に考えられないと無理だと。全てのものは因果関係というもの で結っていて、じゃ因果関係の視点っていうことを考えた時に、それ以上行けなくな るっていうことはないので、え、信言集におい ては、無視無臭、始まりも終わりもないのはこの世界だと。で、そこにですね、これおそらく、え、古田さんが、え、かかられるところだと思うんですけど、信言集の場合には、大日如来というですね、はい。え、その根源の仏というものがあって、という言い方をする。これも方便なんですね。公房大子はその言語を持ってし ては、この世界の心理というものを正確に解すことはできないけれども、それを知りつつ、言葉を使わないと結局人間はどうしようもないので、限界まで言葉を使うんだという考え方をされている。そのベース、やはり密教の考え方なんでしょうね。で、これ僕はい、ありがたいことに、今科学というお話も出ましたけど、20世紀21世紀に入りましてですね、え、その科学というもののレベルというか威力がですね、凄まじい進歩を見せているわけです。であんまり、ま、最近多いんですけどね、何でもかんでも仏教のですね、教説を科学に引き当てて、ほら見ろ、科学も言ってるじゃないかっていうのは、僕あんまり好きな立場ではないですね。あくまでそれはアナロジーで、例えとして捉えるべきだとは思ってるんですが、こう、非常に面白いのがですね、第2如来っていうものは究極光だという説があるわけです。根本的に、第2如来は光。しかも光を超越した色のない光だという話があるわけです。で、それに対して、これはあんまり一般的には考えられてない、知られてない話だと思いますけど、実は大日如来とつになる仏がいて、仏現仏母という女性の仏様がいるわけです。あ、そうですか。仏の目の仏の母と書く。そう。はい。で、この男性として表現される光を超越した光の大日と、仏っていうのは女性として表現されて、そしてま、観された文字からも見てとれる通り、目なんですね。見る。つまり、大日というエネルギーを仏という目が見ている。その世界が我々の現象世界だとうん。だ、から第とはい、認識とエネルギー認識。え、つまり、第2如来は物に認識されないないと、エネルギーのまんまで働きが持てない。つまり無限の存在。無限って結局、その始まりも終わりもないって話ですけど、無言っていうのは補足できないんです。無限の時間の中のある一点って意味がほぼないですから。それに対して、仏源が何か の認識をかけるわけです。認識がかかったものっていうのは、有限化するので。そういう意味で、この父なる大日と母なる仏言の子供が我々だと。つまり、この大日というエネルギーを、物質の世界、刑事家の世界に実現化して具現化してるのが、物源の力で、あって、つまりこの世界に現出している、あらゆるもっていうのは、この第2由来が元々持っていたというか、大日そのものであったエネルギーが、物限に見られたことに よって、何らかの限定を受けて働きを持ったのが、我々の世界だと。であるならば、これからアインシュタインのE=mcの事情って いう、あのエネルギー質量等化の法則っていうのとよく似てるんですよね。もっ言て、今の量子力学そうですよね。粒論そのものの話です。これそう。電子のあの20スリット実験の話によく似ている。め、そこはもう慎重になる。僕なんかすぐ同じだって言いいたくなんですよ。それは無理かなっていう気がするんです。同じだって言いたくなっちゃう。そこが軽薄なとこなんですけど、本当に分かりやすい。仏教が身近になるんですよ。今盛に言われてる量子論のあのニジスリット、ちょっとこれは説明す長くなるからやめた方がいいと思うんですけど、あのエネルギーは波動と言える。物質と言えないかもしれ ない。でもこっち側に認識すると、それはいきなり粒子、電子、あるいは物質っていう風にできる。言える。そうすると、観察者がいて、認識しないと物質じゃない。エネルギーのまんま。観察者が写真に撮ったり、しっかり認識すると、それは物質という形で物質化できるっていう。え、何言ってんのっていう世界が量子力学でだんだん出てきちゃった。そうすると、何言ってんのっ てた仏教の捉え方、例えば半夜教の四則空空足座敷。この物質世界と空の世界ってどんな感じなの。よくわかんないんだけどっていうのが、ものすごく見えてきて、一緒とは言えないっていう、松波さんのお立場よく分かりますけど、僕みたいにライセンスも何もないやつは、ちょっとペテにかけてもいいんじゃないですか。絶対松波さんはここまでしか言ってないって、僕が良識を持って出展を明らかに。そっから先は私の妄想で言いますって いうクレジットをつければ、僕はゴールとは言わないけど、すごく似てないって言っちゃっても許されるのかなと思うんですけどね。そう思いますね。ちょっと話ずれますけど、北家教というまたこれも大きな王経の中にですね、あの仏教の世界観っていうのは、北家鏡結構ね、色々語ってる片の例えっていうのがあるんです。はい。その長者さんの家に子供が3人いて、不幸なことに家事にになっちゃうんですよね。で、子供たちは部屋の中でこうおもちゃで遊ぶのに夢中になってて、その子供がいる部屋に向かってこう炎が迫ってくるわけですよ。で、大人たちはもう先に脱出していて、で、子供たちに早く出てきなさいと、死んじゃうよ、家事だよ、早く出なさいって言うんだけど、子供たちはもうおもちゃに夢中になって出てこない。で、しょうがないので、そのお父さんの長者さんは、その1人1人に、え、なんだったっけな、え、牛が引く車と、鹿が引く車と、羊が引く車っていう、面白いものをあげるから、それ外に止め てあるから、早く来なって言うと、子供たちはなんだなんだってこう飛び出していく。で、こう助かるっていう話があって、ま、嘘も方便という話ですよね。そういう意味で、うん。仏教のそのなんだろうな、使えるところっていうもの を世の中に使ってもらうために、そういう方面というのは僕ありかなと思う部分 はありますけど、はい。ちょっと僕の立場とし ては慎重にいかない。そうそうじゃないと、何言われるかまた誤解の種を産んじゃ意味がないですもんね。はい。さらに、ま、うちね、いろんなその学者の先生方も来られるん です。宇宙物理学の先生とかも遊びに来られたりして、ま、お話ししてるとね、やっぱね、めちゃくちゃ難しいんすね。やっぱね、その量子力学の話って、ちょっと全証明されてるわけではないですし。はい。なので、迂闊にですね、これ一緒ですよっていうこと言うと、彼らの研究者の先生方の、なんだろうな、この気分を害するというか、ですね、研究に道るようこの頃松さん、いやらしい言葉で僕は嫌いなんで、ニアリイコールって言葉ですか。だから、そのくらいの中間点もありかなって、嫌らしく考えんですけど、ちょっともう1回元に戻ると、その物書を認められない俺みたいなやつにいっていうね、その絶対的なもののかけらが、それこそぶしの精神じゃじゃないけども、入ってるとは思えないみたいな、私からすると、さっき疑問を呈したんですけど、そのさっきの大日の来的な世界で言うと、光の話とかも含めて、こっち側に女性のイメージがある仏がっていうので言うと、物性あるってのはもう一押し説明して、いただけますか。まさにそこをですね、つまり、大日という根源のエネルギーを物が、見ることによって、我々のこの現象世界がある。で、あるならば、この現象世界の全ては、第2如来の一部なんですよね。とするならば、大日が仏であるっていう説を取る、ま、そこをま、一応設定するのであれば、仏でないものが無い。なので、交互大使においては、こういう無期物でさえも、物性があるというか、仏そのものだろうと。で、ここに仏を見ないっていうものは、僕たちの目が曇っている。うん。うん。その元々は第2の来そのものなのに、そこがま、減少化したことによって、いろんな働きを持つわけですけど、そこに集中しちゃって、自分の人間だったら人間としてのこの21世紀の日本を生きるホモサピエンスの1人としてのポジションに集中しすぎてしまって、自分の本質的なあり方っていうのがわかんなくなってる。人間市場主義になっ ちゃって、はい。これ、この目との関係性、みんなベースは同じ粒子、物質、素粒子で出来上がってるのに、何言ってんだっちう話ですよね。そうなんですよ。私とこの机とかのどこまで行くかですけどね。根本的な区別って本来、ない。だって、科学のアナジって、元はもよくわかんないですけど、ビッグバンの時のなんかめちゃくちゃちっちゃい高温の点だったっていう。そっからインフレーション、え、ぐらい広がったことによって、今もまだ多少拡張してることですね。はい。そういうことですね。そうなったら、その石のかけらと かと僕たちていうのも因果関係をずっとたどっていくと、一緒なんじゃないってこと。さらに言うと、そのエネルギーですよね。ま、あるものはそのの周りを電子っていうのが飛んでて、その原子角とか電子もなんとか食とかですね、そのウィクボソンだろ、なんだろっていう話になってるわけ。そこまで還元すると一緒なんですよね。確かそうなんですね。だから水と自分をどうしても、とかくこう分けんですけど、これやっぱり自分は私は水ですって言わないとね。はい。も、これ飲んだら、まさにね、そう。ぐちゃぐちゃ言う水ですって、ことですもね。水分6070%ありゃね。そう、そういうことです。そういうことですもんね。だからやっぱそこを分けして生きていくのが世の常なんだけど、本は仏は貫いてるから、仏の一部じゃ。なんで釈迦は2500年前に弟子たちに、その絶対的な仏とか、そういう大日のとか、そういうすごい光とか、そういうものを認めずに、手前で止めたんですかね。その釈迦を進歩、分かりやすさ、はい。だと思います。あ、2500年前の一般的な方々にの教が解いてるような世界観っていうことを話しても、なんかあるオカルト宗教の一派が新しくできたっていう捉え方を多分される。うんなので、もっと具体的な、もっとなんだろうな、その実際的な教え方をした結果、あの原子仏教のお釈迦様の説になってるんじゃないか。なるほど。僕ね、悟りでもなんでもない、ちょちょびだけ勉強したなと思ったのが1年以上前なんですけども、やっぱり京都にね、あの花園大学仏教系の大学の中に、原仏教の赤岳と言われる、あの先生が佐々木静先生っていう先生がいらっしゃって、僕は釈迦押しで押し目やってずっと釈迦を押して死んできたいんだと。だけど、絶対釈迦的なえ、参画の中で集団で修行しながら、そして衣1枚で腐ったもの与えられても食べて、死んだっていい。またどうせ輪廻するんだったら、また修行し直すみたいなことができないと、欲望もあるとうん。だからずっと押し続けてんのに、自分の実生活が全然釈迦仏教的じゃないっていう、このもう大矛盾。ま、どうしたらいいかみたいなこう人生相談になるわけです。そ、もうさらっと言われたら、古田さんいいじゃないですかと。私だって同じですよと。あられもないっては言わなかったけど、心理を解いたんだと。釈迦って人は2500年前に、どうあれ、どこで止めようが、どう言い切ろうが、心龍この世人間の苦しみからの開放の密と悟とは何か、心理をついた。そこでま、因縁正記、演技の法則、因果足ということを言った。言ったんであって、人間というのは自己保存の性質を持って、割愛を持って生まれてきちゃってる。我々ごとき存在が釈迦そのものにはなれないと割り切った時には、主観的な宗教もあっていいんじゃないですかと。私は言いたくはないけど、自分なりに釈迦の本質的な心理以外のとこでも、何かにすがるようなもの持ってますよ。うん。古田さだってあるでしょて、ものすごくあるわけですよ。こんな私ごと希少な存在が、釈迦の手だけでは救われない。もうちょっとなんか爪跡を残そうとする嫌らしさとか、すがることもあるわけです。じゃあ、そうだ。じゃあ、釈迦の心理を埋め込みながら、こっち側は都合良くだけど、やっぱり自分の主観的なね、何かに手を合わせて、感謝して、祈って、こうであってほしいという願うストーリーライン持ってていいんだと思った時に、すごく救われた気がしたんですよ。こういう僕の勝手なこんな話は、どんな風に思われますか。松。はい。え、私は、先ほどと繰り返しになりますけど、密教の立場からですね、お話を申し上げたい。密教っていうのは、一応歴史的に仏教というこう広大な伝統の2500年の歴史の1番最後に出てき来たもの、最終バージョンなんです。ま、それがいいのかどうかっていうのは議論ありますけど、一応最終バージョンでこと間違いない。密教っていうのは、だから、いろんな仏教の設っていうものを集合させていって、え、全部こう保持して、え、最体系化し たものだと私は理解してます。何が起こってるかって言うと、もう平たく言うと、親切になってると思ってます。だから、お釈迦様っていうのは、もう寿命の限界もあるし、2500年前のインドっていう、しかもファウンダーですから、01をやった方ですから、1歩目から行かないといけなかったわけです。なので、限界があった。で、そのお釈迦様が残してくださったものを、弟子たちが展開していった。で、そういう膨大な、もうすでに設があるという状況を踏まえて、最終的にこう考えたらパーフェクトになるんじゃないかっていうのが、僕は密教だと思ってるんですね。ある意味あれですね。原子釈迦仏教は釈迦という悟ったハイブランドの人 の機関点があった2500年前。そして密教はシベット、中国で花開いていた。そして日本にも来た。密教っていうのは後ですから、バーニーズニューヨークみたいな巨大セレクトショップのいいものだけをバイヤーが集めてきて、これはいいよってことですよね。はい。そうです。ただ、ややこしいんですね。その部分全部盛りなんではい。はい。今のお話にお答えするとすると、結局ですね、その世界観なんですよね。そのいかに人間が生きるのか、人間が生きている生命存在とは何かっていうことに対する1つの答え。仏教としての答え。ま、これ密教としての、という言い方でいいと思うんですけど、の答えが、先ほど申し上げましたE=mcの事情的なですね、万物は完全に平等な根源のエネルギーから、因果関係ということによっ て現れてきたもの。そうですよね。宇宙もその、なんかわかんないけど、因果関係があて、ビックバンがあった。なんかわかんないけど、その素粒水が宇宙にバっと広がって、なんか、わかんないけど、こうぐわってこうスピンが起こって、太陽っていう構成が生まれ、なんか、わかんないけど、因果関係で太陽系の惑星ができ て、真ん中に5縁もあってね、ね。で、第3惑星になんかわかんないけど、地球っていう不思議な星があって、で、因果関係がわーと集約して、今ここに我々がいるわけですよね。そうですね。かけらなんですよね。となった時に、僕ら星のかですよね。と思います。あの太陽人ですよね。そう、宇宙人であり、太陽人。宇宙人いるのって言葉おかしいです。自分も宇宙人の癖してね。で、これはつまり、その根源のエネルギーが、なんかわかんないけど、因果関係でエネルギーのままでいりゃいいのに。そうだ、なんか形を取ってるわけですよ。で、これはなぜだって考えた時に、やはりそこに も食うという概念が出てくると思うんです。けど、ちょっと上なとこから行くんですと、頭整理しながら聞いていただきたいんですけど、はい。クは無ではないんですよね。そうですね。ないということではない。で、クっていうのはゼロという概念と関わっているわけです。で、変な例えですけど、0っていうのがあるん ですもね。こりんごがあって、このりんごを僕が全部食べたら、普通の感性だと、りんごはなくなったっていう言葉を使うわけです。ところが、このインドの哲学者たち、空を解いた哲学者たちによると、違う。そのりんごは私に食われるという縁因果を持ってないと、いう性質を得た。うんとわけですよね。ほないという性質を得た。そのはい。だからりんごはあるんですよね。ないという性質を得たりんごがどこにあるかというと、情報としてあるわけですよね。空間履歴ですよね。で、これブロックチェーンのように来た。ここなくなることがないんですよね。空間履歴と、して残っちゃってんですよね。そうなんです。よりんごを食べて、りんごという物質は消化分解代謝されて、ここでこうエネルギーに変わっていくけれども、履歴は残るんですよ。ね。で、しかも今まさにおっしゃられた通りで、物質としても消えてないんですよね。消えてないんです。僕に食われたら僕の一部になってるし、え、例えばなんか芋虫に食われたら芋虫の一部になってるし、はい。腐ったって言っても、それ微生物が分解してるわけで、土になったり美生物になったりしてるわけですよね。なので、りんごは物質としても保存されてるし、これエネルギー保存の法則ですよね。はい。で、同時にりんごがそのようになりんごであって、僕にとってうまかったとか、酸っぱかったっていうのも全部情報として残っていくわけですよね。これその物理のアナロジーで言うと、熱力学第2法則に似てますよね。エントロピー増大。はい。はい。最終的に滅べていくしていうことは、そういうことですよね。はい。そう。ま、エントロピーの話だと、ちょっとその個性がなくなっていくってことになっちゃうんでょ、ちょっと違うかもしれないですけど、情報が無限に生成されて、その作られた情報が消えるっていうことがないわけですよね。人間が忘れてしまったとしても、宇宙の履歴の中で、龍原がそのリゴ食って、それ酸っぱかったぞと、かっていう情報があったっていうことは、なくなんないわけですよね。うん。これがひょっとしたら、その第一如来と呼ばれるですね、エネルギーがわざわざ自分の一部を限定して物質化してる意味なんじゃないのかと。え、つまりですね、エネルギーっていうのと、情報っていうのは重なって存在していると。であるならば、そのエネルギーが無限で働きが持てない状態だったら、情報も変わんないわけですよね。はい。なので、このエネルギーが一部を具現化させて、具現化すると働きを持ちますから、情報が発生するわけですよね。その発生した情報っていうのは、どこにあるかって言うと、根源のエネル ギーっていうところが持ってる情報になってるわけですよね。つまり、エネルギーっていうものが具現化して、何か働きを起こす、働きをなすということがあった時に、エネルギーの相対が持ってる情報っていうのは、常にバージョンアップされていくっていうことですよね。はい。だ、とするならば、我々存在してる個体っていうのは、情報を作り続けるために、わざわざ因果関係を通って現出してるって考えたら、どう生きるのかっていうのは、結構容易に答えが出る気がするんです。ハッピーに生きればいいんです。素敵な生き方をすればいハッピーな履歴が刻まれるということですね。はい。フルタ一郎という人はこんな風に来て、その人のトータルはハッピーであって、そして古田一郎さんというがいらっしゃったことによって、世の中がこんなにハッピーになりま したよっていう空間履歴は永遠のものとして刻まれるわけですから、そういう大日の密教的な考え方、その心理での密で考えていくとですね、はい。これはあの昔からこう言われるアカシックレコードとか、はい。それから今のゼロポイントフィールド仮説とか、色々言われてるので言うとはい、この宇宙がまだ拡張してるけども、宇宙の果て、宇宙以降、宇宙から先は何つってわかんなくなっちゃうと、例の論議あるんだけど、その真空まの空の状態のところに、エネルギーっていうのは別に距離関係ないですよね。瞬時に飛んでいくわけですよね。で、そこに全ての履歴が刻まれているっていうと、人っていうのは肉体的には死ぬけど、死なないという、ちょっとそっちの方にこう行きますよね。話がね。はい。なので、輪廻っていうことが考えられるんだと思います。エネルギーとしてもどっかなくなることはない。情報っていうものも不滅にずっと蓄積していくだから、はい。肉体は滅びて消えることがないわけですから、再び何かになって生まれ変わる可能性がある。そしてそこに生まれる個体は、その個体が過去で作ってきた情報っていうものにある程度依存して生まれるわけですから、その豪ですね、カルマっていうものが引き継がれるんだっていうのも、ある程度妥当性があるように思えるわけですよ。ね。いや、だからこの5仏教の根本、あの釈迦仏教の根本も5カルマであると思いますし、それから大場仏教の世界に行った。で、その例えば有識で言えば、有識哲学というね、素晴らしいと言われてて、僕も全然半分も分かっちゃない、全然分かっちゃいないけど、有識で言えば1番底部にあるのがアラ屋敷で、この認識の8つのうちの8式。で、これはゴカルマとも言いますよね。はい。この荒屋敷の5というものを、釈迦は悟って、この5を捨てきれば廻しない、生まれ変わってこない、輪廻の輪から外れると言いましたよ。でも、持ってる限り永遠に刻まれて行ったり来たりしちゃうっていうことにな。それ は自分が生まれ変わるっていう自分の意識とか記憶が生まれ変わるということでは ないにしてもですね、人間っていうのは必ず、いくら少子化が起きていても、どっかで生命の衣吹、人間に限らずあるわけだし、と言えばさっきのリグの話でば、リゴは別にリゴに生まれ変わる必要なくて、そうですね。違う生命のイとしてまた繋がってってるって考えると、ものすごくダイナミックで興味深いですよね。我々どんな常識で生きてんのって話になりますね。ですね。え、仏教、特に大場仏教、特に密教は、そういう全体性の哲学だと思うんですね。子っていうのにこだわるよりも、時間軸も空間軸ももっともっと拡張して、全体視点の中で、その一部としての私。これはマンダラっていうのに関わってくると思いますけれども、そういう世界観なので、そういう意味で別にお坊さんになって、上座武装的なその厳しい対立を守って、欲望を制御してっていう生き方を必ずしもする 必要はないだろう。因果関係としてそういう人がいらっしゃった方が、え、仏教の1つの伝統としてはありがたいっていう事実はあるので、僕はミャンマーとかタイの方々と かね、日本人でもやりたい人はやっていただいた方がいいと思うんだけど、全ての人がそれをしないと救われないということは、少なくとも密教は考えていないので、だから1人1人自分のま、与えられたっていう言い方するとちょっと運命論ぽいですけど、自分のあり方にまさに公房大使の考え方ですね。即して、身に即してですね、あなたの身に即して、幸せなあり方、ハッピーなあり方っていうものを、全体と子の関係の上で実現していくっていうことができれば、で成仏、仏になる、促進成仏と。そうそしたらみんながハッピーになるわけです。みんながハッピ。みんなをハッピーにできたら、その人ブッダですから。で、よく考えてみたら、あれ俺って大日の一部だよねってなった時に、じゃ自分自身をハッピーにし、で自分自身っていうのが大日っていう領域に至っていたら、他の存在たちも物さえも自分の一部なわけですから、その全てに対して足かれと思って、邪悪な行いするっていうことはないはずなので、それがま、密教の生き方なのかなていう風に思います。なるほど。あのさっき、え、5これがカルマだったけど、あの僕が読んできた、ちょっと忘れちゃって申し上げないです。松波さんの本の中でああと思ったのは、ああと思った記憶だけあって、本質忘れてんです。けども、5カルマは今時に言い換えればこう いう言葉と対応するっていう、あのブロックチェーンの話をしたね。マを自分なりのイメージであだこうだ考えてはいたつもりだったけど、ブロックチェーンと一緒とないね。ニアリイコールと思言て、ブロックチェーンとちょっと似てなくないって言われた時には、うわあ、と思いました。あと、もう一つ最近だったら、あのLMMですよね。ああ、あのAIたちが意してるデータベース的なものにあれにこう情報バーっと入れて、LMMの持ってるデータがヘイトでいっぱいだと、GPTとかでこうやってプロンプ取った時に、ヘイトが帰ってくるわけですよね。で、ここがHで満ちている。はい。と、何か質問したら、そのAから答えが返ってくる。これがまさに敷的なこを超えた全体の、みたいなものがここに蓄積されていて、で、その5全体のア式のようなブロック、LMMのような情報場っていうのに、何をインプットするのかっていうの1人1人のあり方にかかってるわけです。で、僕たちがどういう生き方をするかっていうので、人間が接続してるLMMっていうのが質を変えてくるっていうことはあると思うので、まさに観察者、認識するものがいるいないで は変わっ。そういうことですね。ここということは、あのどうしてもこのところね、本当にただ欲望を満たすことがもっともっ て欲望が怒涛のようにバブル化するのに、それがあれのままで生きるのがいいみたいなポジティブシンキングはふざけんなと僕は思ってんですよ。やっぱり今のお話聞いてても、ハッピーって言うと誤解する人もいるけど、松並さんがおっしゃらハッピーになるっていうのは、心持ちが落ち着いていて、今までのようにあんまり同じたり悩みすぎたりしないで、こういうことであっても感謝できる幸せっていう風に思えることが大事なわけじゃないですか。そうですね。それなのに、うわーっと自分の思い通りになるみたいなことがハッピーっていうのは、僕は取り違いで、今行きづらいとかね、生きづらさ。一方でポジティブだ、ハッピーだ。一方では生きづらさとか、自分の居場所がないって証人欲求は満たされないってことになって、僕にもあるんですけど、十分ちょっと心の持ちようだってのは、もっともっと僕らそういう風に考えていかなきゃだめですよ。そうSNSAIとなくんじゃないかなと思うんですよ。まだ科学が心をにメスが入ってないじゃないですか。はい。なんで意識が生まれんだ、なんで心とはなんぞやってのは、ここが人工知能を経由して、人工知能にすぐ意識やこれが生まれるつってんじゃないんですけど、人間が作り出したものからまたさらに襲わるって言って、心とは意識とはっ てのは解明されていくと、本当の幸せって見つけられるような気がするんですけどね。そうですね。結局、僕はそのま僕の立場ですけど、その方向の先にあるのがやっぱり仏教っぽいねってなるような気がするんですよ。ね。はい。あ、結局仏教もそのくっていうのに、ま、1番また最初に帰ってきちゃいましたけど、区っていうのにフォーカスするんですね。え、区の大義号が仏教の場合には楽という言葉になりますけど、楽の方はね、仏教あんま言わないんですよね。なぜかと言うと、これ僕の考え方ですけど、その1人1人のその楽、喜びみたいなものて査万別なんですよね。変な話ですけど、鞭でひっぱたかれて喜ぶ人もいるわけですよ。そうですね。それを一概にこう、じゃあこの人無視で立喜ぶから、あなたも叩いてあげましょうって言やめてくれよって、いう話になる。で、それに対して、そこは個性がありますね。苦の無がなのに、仏教は無がだから、自分なんていうのは集合体に過ぎなくて、虚空ですよね。実態はないのに、そこはあるんですよね。子がはい。ありますありますとか、関係の結果、因果関係の結果そうなって、たまたまがあで、人間という種族としては、その楽のバリエーションより苦のバリエーションは少ないんですね。結局、その望んで得られず、嫌がってることを与えられるってこの2つに集約するのが区です。から、まずこれがない状態が楽の前提だろうって考えるのが仏教なわけです。だ、からそのもっと欲しい、もっと欲しいは変化する楽を言ったら逃げ水のように逃げていく、新気のようなもの、みんな一生懸命求めることになるんで、そういうこと。それは自動的に区が発生するんですよ。足りないっ て。こんないいもの買ったけど、まだ足りないって、こんないいもの買ったけど、もっといいものがあるよねとか、壊れちゃったって いう苦が絶対に来るんで、一切満足ないです。はい。まず先にくっていうものを乗り越えなさいと。で、そうしたらあなたの安楽、え、娯楽でもなんでも有楽でも閲でも何でもいい楽っていうものは、自動的に手に入りますよと、いう考え方が仏教だと思。心持ち変わってますからね。アルテの苦を克服すれば。で、それが苦しみを味わうんだと。区から入るんだと、いうと、やれネガティブだとか、そうですね。ハッピーになるたら、まずそっち側から行っちゃいましょうよって、くっていう重要な通り道を回避しようとするじゃないですか。はい。ここが間違って、ここを超えられれば、本当に区から入って楽に行くっていうのは、すっごく全頭な道になるはずです。そうですよね。だからお釈迦様が一番最初に他社に教えた書店法林と呼ばれるですね、最初の説法が死体ですね。四つの聖なる心理、苦、滅、度。一番最初に解いたのが区なんですよね。ここはもうお釈迦様もよく分かってる。まずここから行かないと、ていう話なんですよね。サナートの地でね、森の中で解いたら獣たちもやってきて、耳を傾けたっていう伝が。しかも感動したっていう伝承残ってますけど、はい。私とね、花園大学の赤岳、佐々木静先生で、人生後半そろそろ仏教に触れようという本を出しました。私、古たちがずっと喋る仕事やってたのは9割キューブ準備が全てなんです。伝えるための準備額という本を出しました。