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え、それでは今回の内容に入ってまいりたいと思います。
え、今回は、え、第5章、「コミュニティを組織する技術」、え、「都市計画とソーシャルワーク」、え、という内容をやってまいりたいと思います。
まず、え、1、え、として、「電園都市の理想」ということで、え、まずここから、え、見ていきたいと思います。はい。
で、え、この、「電園都市の理想」、え、ここでは、え、明治期、え、の、え、日本のですね、地方改良運動、え、という、ま、政府の、え、一連のその政策について、え、確認されます。はい。
え、地方改良運動で、この地方改良運動っていうのは、え、明治期、え、特にその明治の後期のですね、え、ま、え、地方、え、ここでの地方と いうのは、え、国家政府に対局に位置するようなですね、日常に密着した領域のこと を指しています。
え、つまり、え、その中央政府、え、ま、当時のです政府ですよね。え、その、え、対局に意思するような、ま、日常に密着し た領域、え、これは別の言い方すると日用 生活を送るような領域、え、そこを、え、地方ということで、え、その地方のですね、改良する、ま、つまり、え、地方を、え、改良する、え、そのこうしたその日常生活を送るよう な領域をですね、改良していくという、え、この、え、一連のですね、え、それを国 を、え、上げてのですね、え、運動として 改良していくような運動、え、これをま、え、当時の名政府が考えたわけですね。
で、え、それが、ま、ここでのですね、主題 等になるわけですけれども、え、なぜそもそも地方を開するのかって いうことでですね、ま、当時その、え、欧米列教、ま、その、え、欧米諸国ですね、ま、日本が、ま、え、追いつこうとして いたその明治機能ですね、え、それらの 国々に、え、並ぶような、ま、強人な国家 を作るためのですね、え、その国民を統治 するアプローチを、ま、それまでと、え、 変える必要があるということで、えっと、 まずはその日常のですね、領域、え、そう した司法を改良していくということをです ね、ま、明治政府は打ち出したわけです。
で、具体的にどういうことを行ったかって いうとですね、え、この、ま、コミュニティの選別という説ですけれども、この地方改良運動が目指していたのは ですね、え、町村、ま、え、全国、え、に あった、え、町村町や村をですね、え、 国家、ま、明治国家、明治政府のための 共同体に転下させる、え、という意図が あったわけです。
で、そのように、ま、え、この地方改良 運動についてるのですね、歴史学的な研究 をしている、ま、宮島正というですね、 歴史学者が、ま、え、総括してるわけです けれどもはい。
で、ここでのその町村と いうのは町や村、え、これは、ま、明治期 のですね、大学、え、具体的にはその明治 21年のですね、え、1888年交付の 町村性によって創された行政単位であると 。
で、このが、え、明治の大学合併で、え、 全国に約7万ほどあった存落というのは 1万数千程度の、ま、村町村に、ま、整理 されましたと。
え、しかし、え、行政と 自然の対立ってのは解消されてなかったと 。ま、こうした内容は、え、第4章でも、 ま、え、この行政と自準については、ま、 え、4章でも言及されていましたが、ま、 ここの辺りは、ま、え、4章と少し重複 するところです。はい。
で、ここではその地方改良運動をですね、 え、指揮した、え、当時のその内務省と いうですね、え、ま、え、メイセフの完僚 組織ですね。
え、それが実際にどういう風に地方改良 運動を、ま、行ったかということで、え、 ここでは特にその、え、内務省のですね、 え、地方改良運動を指揮した、ま、重要な 官僚の1人である、え、井上市、え、と いう官僚がですね、え、取り上げられます 。はい。
で、この井上市、え、名前をです ね、まくチェックなどをしておいて ください。はい。
で、地方改良運動を、ま 、主導した、ま、財務所の完了であると。 はい。
ま、当時は、ま、その地方局、え、 府県課長ということで、その、ま、え、 まさにその地方をですね、え、統括する、 ま、その、その重要な式をしていた、ま、 幹部であると。
で、井上はですね、ま、公共心と共同心の 両立っていうことで、え、この2つを、ま、 両立して、ま、かつ その国民がですね、ま、この2つを、え、 それぞれ身につけるってことが、ま、必要 であるという風に解いたわけですね。はい 。
え、公共心というのは、ま、国家、ま、 つまり明治政府の要請人を答えて放出する 態度であると。で、中央から回ったまでの 司令系統を強行にするっていう目的があっ たと。
で、共同心というのは共同で、え、何かに取り組むのは共同ですけれども、 ま、町村の内部の断結をするというですね 、ま、そういった、ま、重要事項でが、え 、それが重要事項であるという風で、この 2つを両立させることが重要であると。
で、さらに先ほどあの明治の大学合併という のに、え、言及しましたが、え、この ブラック、ま、え、ここではその旧村です ね、え、その間での、ま、影響力が残存し ているとかですね。あとは地主と工作人の 階級対立が起きていたり、 え、あとは、え、時代としてですね、時代 背景として、え、またその国際情勢として ですね、え、日路戦争が終わった後、ま、 日路戦争後のですね、え、ま、日本は、え 、ロシアに、ま、戦争に勝って、え、一応 国際部隊に、ま、踊り出てっていうことで ですね、ま、世界的にも注目を集めていた と。
え、しかし、ま、内政ですね、国の中 の政人目を向けてみると、え、増税である とかですね、あとは地域社会が、ま、不 安定化していった、え、そういう時代でも あったと。
で、ここではその地方改良運動のですね、 ま、主な目的として、え、この行政日常 生活の単位として、ま、え、国家明治政府 の、え、様々な政策とか要請に対して、ま 、一致共同して行うような、え、取り組む ような、え、そうした町村民を作り出すっ てことが、ま、この地方改良運動の大きな 目的であったと。はい。
え、これがその 井上らのですね、ま、内務省が中心となっ て、内務省の中心となって指導したと。 はい。
で、ここではですね、え、重要事項 の1つとしてそのコミュニティの選別と いうのが行われたわけですね。
え、コミュニティの選別、え、つまり、え 、それ以前までですね、その地域の中で、 え、継承されてきたり行われてきたような 風習っていうのが排や排除の対象となった わけですね。
で、これもやはりあの4章でも少し扱い ましたが、4章ですとその民用とかですね 、盆取りとか、ま、そういったことがです ね、ま、え、そういった、え、地域で、え 、受け継がれてきたような風習ってのが 、え、しばしば、え、ハがき、え、排除の 対象となったんだ。
で、それはなぜかと 言うと、え、国家の要請に染めきかねない で、からであると、え、つまり国家の要請 っていうのは例えば長平ですね。え、特に その成人男子は、え、兵力として兵士として 、え、軍隊に、ま、徴兵されるとであるとか 超税、ま、つまり税金を集めることであるとか、 あとは義務教育も、ま、この時代に制度化された わけですので、え、そういったことに、ま、 都合が悪かったからと、え、その国の要請 にその聞かねない、聞かない、え、国の 要請を、ま、場合によっては拒否するよう な、ま、そういう動きになりかねないのが これらの、え、その地域それぞれの風習で あったと。
で、そうしたものはあらかじめ 目を積んでおこうと排除しようというもの だったわけですよね。はい。だからこれが コミュニティの選別の1つであるて。
で、さらに、え、この時期に新しく導入された 共同体的なものとして、え、新しい共同体 的なもの、え、それは成年会であるとか、 ま、貯蓄納税組合い、つまり、ま、税金を 納めるような組み合いですよね。あとは 法徳会っていう、ま、その道徳心などを ですね、養うようなこと、ま、そういう こと、そういう触れ込みをするような、え 、こういう新しい、え、団体もできたと。
で、この明治政府がですね、ま、国民統合 に向けて、ま、コミュニティを再編成 するっていうことが、ま、え、行、行いつつ あったわけですけれどもはい。
ま、これはそのコミュニティの選別、つまり 良いコミュニティと悪いコミュニティって いうのをですね、え、この場合の良い コミュニティ、悪いコミュニティっていう のは、え、もちろん明治政府にとって良い コミュニティ、え、それは都合が良い コミュニティっていうことでもあります。
で、え、メ治政府にとって悪い コミュニティ。ま、これはま、別の言い方 すると、え、名政府にとって都合の悪い コミュニティ。
え、それは例えば先ほど触れた、え、この 地域で継承されてきたような風習を、ま 、それを、え、するよう な 、あの、旧村の単位とかですね、自然の 単位、え、といったものは、ま、そういう 風習などはですね、廃撃の対象となったと 。はい。
え、このように、ま、その国民 統合、ま、明治政府の元での国民統合に 向けたコミュニティの再編性ってのは行わ れると。
で、その最も大きな、ま、政策の1つだっ たのがこの、え、神社を合併するという 政策です。ま、神社防止です。
で、これはあの全国の小規模な神社を、ま 、廃止して、ま、一町村につき、え、一社 、ま、だから1つの町村につき、え、1つ の神社という風に成立統合するという、ま 、そういう政策であります。
で、これを、ま、当時、え、全国に、え、存在していた 約20万ほどの神社のそのうち9割が対象 となったものですと。
で、この神社合子のその政策っていうのは 、え、財政基盤強化のためにですね、ま、 ブラックリア 、え、統一、え、つまり、え、1つの集落 の、ま、リアですね、え、それを、え、ま 、え、そのリ野、え、ま、林とかですね、 え、も、え、森林であるとか原野、え、 そうしたものを統一するっていう政策と 、ま、表利一体であったと。はい。
え、そのように言えるものです。 はい。
で、そうした中でですね、え、この 、え、地方改良運動の、ま、取り組みの1 つ、え、重要な取り組みの1つとして、え 、ここでは、え、次ですね、このガーデン シティと電園都市ということでですね、 この内務省の、え、官僚らがですね、当時 の官僚らがまとめた、え、変算した、え 、電園都市という著作、え、これがま、え 、その地方改良運動の中でですね、え、観光 されるわけです。はい。
で、この内務省地方局融資というのは、え 、先ほどの、え、内務官僚の井上らがですね、え、中心に なって、え、この電園都市っていう著作を 観光したと。
で、特にこの井上が、ま、深く関与していた 、ま、手導していたと いうことが、ま、分かっています。
で、この、え、内務省のエノラが、え、ま 、まとめて観光したこの電園都市という ですね、著作。
え、この、え、この電園 都市に影響を与えたのが、え、エベネザー ハワードという、ま、イギリスの都市計画 のですね、ま、この、え、ガーデンシティ っていう考え方なんですね。ま、都市計画 の考え方です。はい。
で、これが、え、 20世紀初頭っていうかです。20世紀に なったばかりの1902年にですね、え、 イギリスで、ま、観光されて、で、これが ま、え、世界の都市計学に、あ、イギリス はもちろんですね、世界の都市計画に影響 与えだった。
で、ハワードはどういうことを、え、ま 、述べていたかっていうとですね、ま 、それは滝に当たるんですけど、ま 、ここで要点だけまとめるとですね、え 、都会と田舎というのは結ばれなくては ならないと都会つまりタウンと、え、田舎 カントリーは結ばれる必要があると。
で、ここでのそのハワードが狙の狙いとしては ですね、え、都会田舎っていうですね、え 、その居住地の2者択一を変えると、 え、つまり、え、ハワードがこの電園と 、え、ガーデンシティっていうですね、え 、このガーデンシティというので、え、 ハワードが考えていたのは、え、都会と 田舎ではない、え、都会でも田舎でもない 、もう1つの第3の選択肢というのを提示 するわけですね。
え、つまり都会の長所と 田舎の長所を兼ね備まれた財産の選択肢と して電園都市、え、ガーデンシティって いうのを定移すると、ま、いやばその都会 と田舎のいいとこ取り、え、具体的には 都会の、え、長所、え、それ例えば雇用、 ま、仕事がたくさんあるとかですね。で、 その仕事で、え、お金を稼いで、で、稼い だお金で、え、休みの日に遊びに行く。ま 、そういう場所や機械も多いのが都会の 特徴、え、長所であると。ま、つまり五楽 ですよね。
その都会の長所と田舎の長所で田舎の長所 は何と言っても都会には、ま、ない自然 環境が、ま、豊かであると。
この都会と田舎の長所、え、いいとこ取り をして、え、その第3の選択肢というのを 提示した都市計画、え、それが、え、 ガーデンシティというものだったんですね 。
で、これはまず都市計画として構想されて 定移されて、え、それだ、あの、計画とし て定移されただけじゃなくて実際にですね 、え、すぐにそのロンドン公外で、え、 イギリスの首とロンドンの公外で最初の ガーデンシティ、え、これがレッジバース というところなんですけれども、え、その 建設に着手していると。
で、このハワードのこのガーデンシティと いう都市計画の構想は、え、ま、例えば その都市研究者のマン報道による、え、 言わせると、え、飛行機と並ぶ20世紀書 との偉大な、ま、すごい発新発明であると 。はい。
ま、この都会と田舎の長所を 金備えるの第3の選択肢っていうのはこれ は、ま、現在では別に珍しくも、え、ない ように思いますけれども、え、これが、ま 、実されたのはこの頃、ま、ハワードの この、え、ガーデンシティの構想で、え、 定移されたものであると。はい。
え、それで日本の、え、この井上の内務 官僚というのは、え、このハワードが発表 した、え、このガーデンヒットの構想です ね。え、これにヒントを得て、え、それで 先ほどのこの電園都市っていうですね、え 、著作を観光します。はい。
え、この電園都市とガーデンシティそれぞれ マークチェックなどをしておいてください。 はい。
ま、この今、え、説明した内容を踏まえ てですね。はい。
え、マーク、チェック などしておいてください。
で、このハワードが提示した、え、この ガーデンシティですね。
これを日本に、ま、輸入するにあたって ですね、井上は、え、どのように訳した かっていうと、先ほど見たように電園都市 という風に訳してるわけですよね。ま、 井上はこれは、ま、ガーデンヒティという のを、え、翻訳したその薬として電園都市 という風に訳してるわけですよね。
で、ここで注意したいのは、え、この ガーデンシティというのは、えー、ま、 シティは、ま、都市という風に訳す。ま 、これはともかくガーデンというのは、え 、これ、あの、日本語に普通訳すとすると ガーデンは庭園ですよね。庭園庭、え、と いう風に訳すことが多いと思います。 ガーデンですね。はい。ガーデンは通常は 、え、そのまま握すると2番とか庭園です 。
え、しかし、え、この井上は、え、あえて ですね、ま、庭園とか庭とか訳さずに電園 というですね、え、風に訳してるわけです よね。で、ガーデンシティで電園投資と ですからこれは、え、ま、役を間違えたと いうよりかですね、ま、医薬、え、かなり だから意図的な、ま、に電園という風に 、え、当ててるわけ、訳したわけですね。 はい。
で、このガーデンシティ運動というのは ですね、ま、イギリスのガーデンシティ 運動は、え、もちろんあの電園都市に資唆 を与えてると。
で、この既存の都市や農村の微点を評価し て、え、微調整して問題に対処するという ですね。
え、そうしたその内務省の、ま、井上らが考えていた、ま、え、その明治期 の日本のですね、え、 都市構想ですね。
え、 ま、明治キーから対象にかけてのその、ま 、日本の農村と都市の関係、え、それを、 ま、調整して、まもえ、それで、ま、その 社会問題に対処していくという、ま、その 意味で、ま、かなり重要なキーワードで あったと。はい。
え、ということを抑えて おいていただければと思います。
で、それ で実際にですね、ま、え、電園都市、え、 この、え、本は全15章、ま、15章から なっているんですけれども、え、それを ですね、ま、え、分類するとですね、 テーマ別に分類するしたのが、ま、え 、121ページの表の5の1ですと。
で、 分類すると、ま、その、え、都市の中で、 そのハード、ハード編と、ま、ソフト編、 1章から5章がハード編、ま、地域生活の 物な基盤で6章から12章がソフト編と いうことで、ま、その電園都市の向けての その心構えとか組織形態行政サービスで あると。
で、13章から15章までが実際 に、え、当時の日本の模範事例として上げ られています。はい。
え、それで、ま、え、参考としてですね、 ま、この電園都市、え、詳しく、え、解説 した、え、この内務、え、内務省の官僚欄 が、え、観光した電園都市ですね。
え、それ を、ま、解説した、え、資料と、え、 あとはですね、え、この東京の、え、施設 として、ま、東急、え、という、ま、 大きなその鉄道グループがありますけれど も、東急グループですね。
え、この東京 グループの、え、鉄道の中にですね、電園 都市戦というですね、ま、え、路線があり ます。
電園都市線、ま、渋谷から神奈川県を東京 の渋谷から神奈川県を結ぶ電園都市線が ありますけれども、え、この電園都市線実 は、え、この電園都市のですね、この電園 都市の構想に名前が由来しています。
で、え、先ほどその、え、この内務省など のですね、ま、その間、ま、え、官僚組織 が、ま、進めていった、ま、明治政府が 進めていったというですね、ま、そういう 話を中心に、ま、電園都市を、ま、え、見 てきましたが実はこれはあの官民を上げて ですね、つまり、え、官僚、え、組織だけ ではなくて民間の事業者もその電園都市 っていう構想をですね、官民上げて 取り組んでいたのがこのぐらいの時代だっ たんですね。
で、民間で最も、え、力を入れて取り組ん でいたのが実は東京グループで、え、です からその電園都市戦っていうのはその 名残りですね、ま、その、え、電園都市と いう東京グループの構想を、ま、え、名前 を路線に残していると。はい。
で、その 解説というのもですね、その東級の写真、 ま、会社の歴史にも書かれています。ま、 これもWebブ上で閲覧できますので、え 、参考にしてみてください。 はい。
え、それで、え、その起裂の修復と いうことでですね。はい。
え、ま、この 気裂の修復という説、ま、ここでその電園 都市のですね、え、実際のその、ま、障害 、ま、この本、え、井上の内務官僚が、ま 、え、提示したこの電園都市、この1章 から3章ではですね、諸外国の電園都市の 事例が紹介されているんですね。
で、特に その事業員が居住宅地の紹介が中心である と。
え、従業員や会社員、あとは工場の 労働者などが、え、住む住宅地、え、 いわゆる社ですよね。
え、その紹介が中心 とされています。
で、特にここではですね、現在のドイツで の、え、ま、この、え、会社の、え、この 食行農損というのが、ま、え、肯定的に 評価されています。
え、つまり、ま、え、この労働者たちが ですね、工場などで働く労働者が、ま、 その一緒に、え、その 職場か職場と、ま、ほぼ同じ領域場所で 、え、クラス住宅地宅があってということ ですね。はい。
で、それが、ま、非常に 肯定的に評価されていると。はい。
で、この電園として所作ですね。え 、先ほどその内容、ま、ちょっと見ました けれども、え、主な内容ですね。
え、この電園都市というのが、ま、観光さ れた表向きの取材というのが、ま、都市と 農村の、え、調和、え、つまり都市、都会 と農村田舎、え、そこをうまく、ま、調整 するっていう調和をしてさせていこうって いうですね、そういう主題、表巻きの取材 としてはそういうものがあったと。
え、ただですね、実は、ま、もう1つその 、ま、いわば裏の主題と言うべきものが あって、それは何かと言うと、え、階級間 の対立を緩和する、え、という役目があっ たと。
え、海級間の対立というのは、え、 この従業員とですね、従業員向上労働者と それを雇う経営者や資本家というの人たち がいるわけですよね。
え、そういうその、ま、経営者サイドと 、え、経営者に雇われる従業員、え、労働者 、え、それをですか、ま、その資本家と労働者などという言い方もしますけれども 、あるいはブルジョアジーと プロレタリアトという言い方もしますが、 その、え、そうしたその雇う側と雇われる 側の、え、つまり給料を出す側と給料を もらって働く側の、え、その階級間の対率 が、ま、激化しつつあったのがですね、え 、この時期だっわけですよね。
で、それを放っておくとですね、ま、その 社会主義の協議というのが、ま、え、出て くるとで、だからその社会主義に対する 防波堤をこう気づくというのも、え、裏の 主題としてあったと。
これはだから、ま、その産業家や、ま、え 、資本主義がですね、進展するにつれて 、え、資本化と労働者のですね、階級間の 対立が激しくなっていった時期であると 、え、それを何とか緩和させようということ で、例えばその従業員が居住する住宅地、 社、え、それを整備して住生活環境を良く するという、え、それは実は裏の手題とし てあったと。
で、これはあの、え、 もちろんそのイギリスのですね、あの、 電園都市の、ま、誕生の地である、え、 イギリスもそうですし、日本も同じ時期 そうだったわけです。
え、この井上のですね、内務官僚っていう のは、え、この労働者の生活環境を整備 する で、え、その労働にとって望ましい新的な 態度であるとか、生活習慣、え、近べで あるとかですね、あまりお酒を飲まないと か、健全な予感を取るとかですね。
え、そう いう風に導くことで、え、その労子官 のですね、ま、つまり、え、経営者サイド と、え、従業員の側の紛争とか階級対率を 無力化させようとしていた。
で、え、今風に言うとですね、え、5助と か強助のようなですね、ま、スローガン なども掲げられていたと。はい。
で、これがその気裂、ま、つまりその階級 間の対立、え、それをなんとか修復さ せようとしていたわけですよね。
え、といった点でその電園都市というのは この、え、地域における理想の共同性に ついて語っていたものではあると。で、 これは、ま、その社会の中に生じ始めてい た、え、そうした先ほど見たような階級 対立のようなですね、起列への危機感が あった。
え、それを、ま、踏まえたもので あったった。
え、ただここではですね、 あくまでその内務省の完了などの、え、 理念が先行していたっていうことには ちょっと注意する必要があると。
で、え、実際あとはですね、この、ま、国 、国の政府のですね、官僚だけは別に考え ていたわけではなくて、こういったこと ですね。実際その日常生活、人々の日常 生活の現実についてのを知識、え、それに 目指して、え、それで、ま、コミュニティ を組織する技術を論じていた人達っていう のもですね、え、特にその専門家には 少なくなかったわけですね。
で、これ以降 、え、この賞では、え、この都市計画の 立場からそうした、え、コミュニティを 組織する技術を論じた、え、都市計画家の 石川秀明、ま、あるいは石川英雄という風 にも言われますが、ま、石川秀明と、え 、もう1人、え、ソーシャルワーカーの、え 、これも、ま、え、現代風に言うと ソーシャルワーカー、ま、社会事業家とも 言いますが、え、滋賀シナ、え、という人 の、え、活動に、ま、焦点が当てられます 。 はい。
え、ということでまず、え、この 石川秀明、え、の方から、ま、え、 見ていくわけですが、「小投資主義と 神話計画」ということでですね。はい。
「生活権としての年」ということで、え、秀明 は、え、19世紀の、え、終わりに生まれ てですね、それで、ま、20世紀中まで 、え、活躍した、ま、え、都市計画、え 、都市計画を、ま、実施、え、構想し実施し た人ですと。はい。
で、この石川の都市計画というのは日常生活 の基盤の整備する 整えることを目指したものであると。はい 。
で、え、この石川はですね、ま、え、 20世紀前半、ま、対象時代にですね、え 、内務省の都市計画技として、え、その 第1期制として内務省に入ってですね、で 、それ で都市計画化として、ま、キャリアを 、え、スタートさせると。
で、え、このぐらい、え、その1920年 から1933年までですね、え、名古屋 ですね、名古屋で、え、その都市計画を、 え、実行実施し、 え、都市計画の構想をしたり実施を行った と。はい。
で、このぐらいの時期にはです ね、都市計画法、え、というのが制定され て、え、つまりこの、ま、本格的に投資家 が、え、進んでいた時期であったのでです ね。あとは、ま、その産業家ですね。で 、それで都市への人口集中ってのが起こって いたと。で、それによってその都市の インフラ、ま、例えば道路であるとか上下 水道、あとゴミ処理施設とかですね、そう したインフラトラクチャー の、ま、整備が課題だった。
で、あとはここではですね、その区画整理 っていうのをですね、ま、特にこの石川は 重視して、ま、その区画整理の、え、やり 方をですね、確立していくと。 はい。
で、あとは、ま、これ実際のその 都市計画と並行してですね、石川は、ま 、え、ま、様々な活動を行ったわけです けれども、その1つがですね、え、この 雑誌、都市捜索という雑誌を観していた。
で、ここでその自分のですね、都市改革の 構想とかプラン考えをですね、ま、提示し ていたわけですね。
この雑誌を自分で自ら観光してい、で 、実際自分で記事を、え、論文などを発表し ていたと。
で、そこでどういうことをですね、ま 、え、日川考えとして提示していたかって いうとですね、この大きくは、え、この3つ ですね。
え、まず1つ目として、え、 大都市は個性を持った小都市の集合隊で あるべきという小都市主義を提唱していた と。
え、つまり大都市というのはその、え 、小都市、ま、個性、個性的な小都市の 集合体であると。
で、この小年っていうこの単位こそが重要 であるっていうまその石川の小市主義と いうものです。
で、2点目として、え、逆場の、え、逆場 の空間演出手法の開発、え、と、あとは これは実際にその石川がですね、出催して いた都市研究会っていうですね、研究会 、え、それを通じて実践をしていた、え 、空間輸出手法の開発と実践、え、逆場に ついてですね。
で、ここでの逆り場っての は、え、何かと言うと、え、娯楽街とか 陥落街とか商店街など、 え、つまり飲食店であるとかショッピング をするようなお店ですとか、え、あとは その、ま、陥落街、つまり、え、飲み屋のような ですね、え、あとは、ま、レジャー施設が 、え、立ち並んでいるとかですね。
え、娯楽をのスポットがあるよう なそうしたを、え、演出する方法と実際に それを実践するようなこと、え、それを まず、ま、え、2点目として、ま、重要な こととして、ま、定義してみましたと。
え、3点目として、これは、ま、日本の 既存の、え、当時のその従来のですね、 都市計画への批判ということでですね、 その地域ごとの、ま、文脈というのを無視 して、え、ひたすらその欧米諸国の近代 都市計画を模法する、ま、マネをする ばかりのですね、え、そうしたその当時の 日本の都市計画を批判したと。
ま、こういったことを、ま、え、実際に ですね、この名古屋に、名古屋の都市計画 に、え、を構想して、ま、プランニングを して、え、それで、ま、実行していたのと 並行して、え、こうした、ま、主張を、ま 、この実際自分で作った雑誌で、ま、 述べ立てていたわけですね。
で、その後、え、1933年になるとです ね、ま、東京に、ま、え、石川移る、ま 、名古屋から東京に移ると。
で、その後、ま、え、第2対戦となって 、で、その後、ま、え、配線し、で、その 戦後の、ま、復興計画ですね、繊細復興 計画の策定をこの後、ま、え、指揮する ようになると、 ま、第2対戦からの繊細復興計画を策定 するとで、それを、ま、指揮すると。
で、ここ で石川は、ま、その人口の抑制である とか、広大な緑地体を設定するとかですね 。あと広場を持つ区域を設定するとか、ま 、そういったことをま、え、提しています 。
で、ただこれは、ま、あくまで計画であっ てですね、実際にはその、ま、繊細復興 計画ですので、ま、予算制約などもあって ですね、ま、え、全てあの石川が考えた こと、え、石川が構想した計画、都市計画 が全て全部実現したわけではないんだ けれども、え、ただ一部ですね、この、え 、投資計画、あの、実際に、え、計画とし て、ま、実現した、ま、そういう都市計画 もあります。
で、非川の考えってのは、ま、特にその 、ま、先ほど見たこの、え、1から3のよう なですね、石川の考えが実際にその、え 、実
現した計画もありますと。
で、その代表的なものも1つが例えば新宿 歌舞伎町ですね。
え、この新宿歌舞伎町は 、ま、え、この石川の、え、考え、え 、特にこの2の逆場ですね。逆場の空間演出 の手法の開発。
え、これは、ま、このげ、この新民宿歌舞伎は現在でも逆リ場、ま 、陥落街として、あの、非常に有名、ま 、日本の代表的な陥落街の1つですけれども 、え、この新宿株基地などはですね、石川 の考えをかなり、え、あ、ま、そもそも 計画をしたのが石川ですし、あとは、ま 、実際その石川の考えをかなり、え、反映し た都市計画となった、ま、その代表例が 新宿です。
え、東京の新宿町。はい。
え、その他にも、ま、いくつかありますがはい 。
え、そういう風にですね、ま、その石、 石川の都市計画っていうのはですね、え 、実際に、ま、え、実現したものもあると いうことで、で、この、ま、石川の投資 計画の構想の特徴というのはどういう ところにあるかというとですね、え、都市 を単なる、ま、建造物、ま、建物やビルの 集合としてではなくって、え、都市を、え 、文化的な文脈あるいは歴史的な文脈の中 で成立する生活権として捉える。
え、そう したところに、ま、え、石川の投資計画の 特徴、ま、え、特に良い、え、意味での 特徴があると。 はい。
この石川の投資の特徴、これをちょっとマークチェックなどしておいて ください。
特にこの生活権ですね。あの、これは非常に重要であります。ま、つまり その都市に住まう人々の、え、その生活と いうのにみ注目して、で、そこからこう 投資計画を立ち上げるっていうですね。
え、そこが非常にあの特徴的なところです 。はい。
で、次の説に行きまして、「何のための 投資改革か」で、え、実はこの、え、石川が ですね、え、この、ま、え、都市計学科と してます、え、キャリアをスタートさせた 、え、ぐらいの、あの、その初期の時期に です、時代時期に、え、このイギリスの 投資系学科のレーモンドアウンに、ま 、面会して、ま、あって、それで色々話をし ているですね。はい。
で、このレーモンド アン、え、このアンウィンは、え、先ほど 出てきたあのレッジワースの、え、電園 都市ですね。
ま、電園都市のその ロンドン外、イギリスのロンドン公外に できたレッチワースの電園都市、え、その 設計を手掛けた都市計画家というのはこの アンです。
で、当時はイギリス政府で住宅政策を担当 する、ま、保険所の主先建築官でっていう 、ま、立場にいました。
で、実際に先ほど出てきたその、ま、電園都市の 、え、1番最初の初期のもの、レッジワース、 その 電園都市の設計を手当てた、え、都学科 です。
で、この安ウンに石川が、え、実際にあっ た時にですね、ま、当時手がけていた、え 、石川が手掛けていたこの名古屋の投資 計画、え、これを安ウンに見せたっていう ですね。
で、その、え、石川が手掛けていたその 名古の都市計画を見た安ウンが、え、 コメントしたのがですね、ま、これは かなり批判的なコメントしてるわけです けれども、え、あなた方の都市計画は人生 を書いていると、え、つまりこの石川が 、え、手掛けていた名古屋の都市計画って いうのは人生、ま、特にこの都市住民、ま 、その、そこに住む住民、名古屋に住む 住民の人生を書いていると。
で、もう1つその、ま、重要なその批判と して文化の面出に過ぎない産業になぜ家の 中で最も良い場所を与えるのかと。はい。
で、ここでの家ってのはつまり都市のこと ですけれども、文化者の飯会に過ぎない、 え、産業、え、だから、ま、その都市の中 で産業官が進んでいたわけですが、え 、そこ に良い場所を与えて、都市の中で良い 場所を与えている。
それは、ま、批判してると。
ただ最も、ま、良い場所を与えられるべき なのはまさにその都市に住む人間であろう と。
で、この安の批判的なコメント、名古屋の 都市計画への批判的なコメントを受けて、 ま、これ今、え、刺激された石川はですね 、え、この、ま、え、安との面談の以降 ですね、え、石川はですね、その夜の投資 計画っていう方向性を打ち出すわけですよ ね。
え、夜の投資計画、ま、これもま、かなり 印象的なフレーズですけれども、え、夜と いうのは、え、ま、昼の反対ですよね。
で 、昼間というのは、え、人間は、ま、労働 をして生産活動を行っている。
え、それが昼間です。基本的には。
で 、夜はその延長であり、え、その後に昼 の後に残された余白ではないと。
で 、こういうま、え、発想をですね、いわ させ、この夜の投資計画っていうのを ですね、この安ウンとの面会以降打ち出す わけなんですがはい。
え、都市の本体としてですね、え、それは 何なのかということを、ま、石川は 突き詰めて考えて、え、部屋にあっては 家庭の時であり、外に出れば臨人の時で あり、え、地末に出れば、ま、市民の時で あるとですね。はい。
え、こういったその、え、ま、生産とか 労働というのも、ま、重要なんだけれども 、それだけではなくて、その、ま、いやば 、その夜、ま、夜、夜っていうのは別の 言い方すると、ま、プライベートの時間で もあるわけですよね。ま、現代不入と 、え 、そういったところを、ま、重視する必要 があるということでですね。
え、以降それ、え、それ以降ですね、ま 、石川そういう、ま、都市計画を、ま 、実践していくってことになるんですが 、 ま、この時代背景としてですね、ま 、高能 省の必社はですね、え、都市計画っていう 、え、そのものがですね、上からのいやば 、この上から、ま、例えば政府が進める 都市計画みたいな、え、そういう性格から 、ま、いやば、その市民との コミュニケーション を行う必要があった、え、そういうことが そういう市とのコミュニケーション、え 、都市計画を、え、打ち出す人たちと市民、 一般市民とのコミュニケーションンって いうのが必要になってきた時代で、え 、そうしたことにたけているような人を、え 、必要とする段階になっていたという風に して、え、この賞の必者は指摘しています 。
で、石川はこうしたその市民との コミュニケーションにはかなりたけていた わけですよね、実際のところ。はい。
で、もう1つ、え、この夜の投資計画に 関連して石川が、ま、重要な、ま、 コンセプトを提示しているんですが、これ 、ま、Iの半径というものです。はい。
え、このIの半径、え、これもちょっと マーク、チェックなど押しておいて ください。
はい。これもちょっと、ま、なかなか印象 的なフレーズですけれども、え、人々は 、ま、愛を求めて都市を目指すと、ま 、ここ での愛というのはですね、ま、え、UI ぐらいの意味、意味合いが、ま、特に強い ものと思いますがはい。
ま、友情に近いような、ま、有UIですね 。はい。
で、投資というのは、ま、人口が多ければ 多いほど、え、愛の量が大きくなくては ならないはずなのに、え、なぜは全く反対 の結果になっているか。
ま、つまり規模が大きくなればなるほど愛の 量は少なくなっている。
ま、は、え、反対の結果になって いるだろうと。
で、それはなぜかと言うと、愛には半径 があるからだという風に、ま、石川は言っている わけですね。
で、さらに、ま、かなり批判、あの 、大都市は批判してるわけですけれども 、ま、大都市は滅ばさらなければならない とか ですね。
え、大都市っていうのは、ま、人間の墓場みたいなものであると、ま 、いう風に、ま、かなり過激に批判してる わけですね。
で、これが先ほどもちょっと確認した、え、この小都市主義っていう ですね、ま、石川の、え、その都市計画の 特徴、小都市主義の都市計画っていうのを ですね、ま、本格的に打ち出すわけです 。
え、つまり大都市っていうのは大都市の 小都市家を進めるってことと、その小都市 の交流の価値を向上させるってこと。
で、この2つが重要であるという風に、ま 、石川は、ま、え、述べているわけですね 。はい。
で、この、え、都市の作用に抗うと いう説に移りますが、この小市主義の都市 計画の課題というのはですね、え、この 先ほど出てきた大都市の中にいかにして愛 の半径を回復すべきか で、そこで重要となるのがですね、この 神話計画という風に訳してますが、これ コミュニティプランニングってですね、え 、これこの英語を、え、石川はですね、 神話計画という風に訳しているわけですね 。 はい。コミュニティプランニング。はい。
これは、ま、え、現在だとそのまま カタカナでコミュニティプランニングと いう風に、ま、え、カカナで表現される ことが多いと思うんですが、あとは コミュニティ計画とかですかね。
で、ところが、ま、石川がこれもやはり あの石川が非常にあの卓越した、え、言語 センス、ま、言葉の、え、選び方をして いる訳し方がうまいっていうですね。
ええ 、そういうように、ま、必もですね、ま、 評価しています。この賞の必射も評価して いますが、このコミ、ま、プランニングは 計画という風に訳してますが、 コミュニティ、え、これをですね、ま、 神話という風に訳してるわけですね。 神話、はい。
ま、親しい間柄みたいなですね、神話。え 、それが、ま、なかなかそのコミュニ ティって言葉のですね、結構本質的な ところをうまく捉えている役であると。
で、その先ほどのその夜のですね、投資 計画っていうのを、これを、ま、夜の神話 計画、ま、コミュニティプランニング、え 、という風に、ま、言い換えているわけ です。
で、石川はその先ほどからなぜその夜に こだわっているかっていうとですね、ま 、え、石川自身の、ま、その、え、この りっていうかですね、ま、夜のクラスは そのために、ま、え、明りしびの、ま 、楽しさ、え、広大な嫌み、そのために人の ようの、え、愛より相悪い親しさ、え 、夜という のは、あの、もちろん日が落ちて ますから明るくないわけですよね。明るさ が結落していると。
え、ただ明るさが結落していて、それでま 、え、光を灯す、ま、え、伝統をつける、 ま、明りという資源の気象性が注意を 向ける先を限定させると、 え、暗いからこそ、ま、電気をつけて 明るくして、え、あるいはロソをつけて 明るくする。
で 、そうすると人々というのは、ま、身を 寄せ合うと人々の間で心身の距離が縮まる 、縮めることを可能にする。はい。
え、これ が、ま、その夜の神話計画というその 石川の計画のですね、ま、重要な部分で あると。
で、それを実際にあの具体化する、ま 、この夜の神話計画を具体化するような実際 のその都市計画の中での施設として石川 考えたのがこの臨というものでした。はい 。林間ですね。
え、この臨光感隣で交合う 間や方はい。
いやば場みたいなものですけれども、具体 的にどういうものかって言うと、ま、集会 上となるようなクラブ室であるとか、ま 、展覧会を行うような部屋とかですね。舞台 、音楽室、保育書、よず相談所、え、イ務 室、講守電話、電話室などななどですね。
これを林感、え、つまり隣の人たちと、ま 、え、それこそあの神話計画の中でですね 、隣の、え、近隣の人たちと、ま 、え、気軽に 交えるような、え、そうした施設を、ま 、実際に考えたわけですね。
で、この臨行間のエリアというのもですね 、ま、人口約3万人で、え、1マイル、ま 、つまり約1.6km 司方のも、え、そのエリアを1つの臨行感 のエリアとなると、 で、地域住民の活動の舞台となって シンボルとなるような施設を拠点とし、え 、計画的にコミュニティを作り出すって いう発想のもが元になっている。
ま 、人を地理的に近接されながらさせ ながらもですね、真的には遠ざけるような その都市の作用に抗う、ま、対抗するよう な、ま、応答である。
え、それがこの臨感 というものだったと。 はい。
え、ということでですね、その次の コミュニティを作る技術っていう、ま 、説に移りますが、
で、ここではですね、もう1つその 石川がですね、ま、実際にその名古屋で、え 、投資計画に従事していた時のこの区画整理 と関わるようなですね、え、そうした、ま 、え、その、ま、え、論ですね。はい。
ここはちょっとま、え、参照されています 。はい。
「公外集落決成の技行」ということですね 。はい。
で、ここではその区画整理、え、 具体的にはその市街地の、え、スプロール 現象という風に、ま、現代ではやられます けれども、市街地の無秩序な拡大をそれを 、ま、え、防ぐような技術、え、それを 区画整理としていてですね、実際にその 名古屋でですね、ま、石川実践してたわけ ですよね。
え、土地所有者は一定の土地を 提供して、ま、道路や公園などの公共用地 を確保すると。
で、行政の財政負担は 小さい。
え、一方でただし、ま、その土地 所有者などのですね、当事者間の合意形成 っていうのが、ま、重要になった。
で、もう1つここではその石川が論じて いるのものとして重要なのがこのバス体と いうものですね。はい。
え、このバス体、 え、これちょっとマークチェックなど押し ておいてください。
え、バス体ですね。
え、抜の、ま、体、ま、罵の地帯ってこと ですけれども、罵衛隊はい。
で、それはどういうところかというと、 スプロル的に、え、ま、無実序に広がる ような市街地のことであると、ま、列枠の 住居が、ま、密集していて、生活環境が 悪い、ま、貧困層が、ま、集中するような スラムが、え、生まれ、作られて、ま、 存在してると。
で、このスラムに対してはですね、その 、それを対策として、例えばその1927年 に不良住宅、え、不良住宅地区改良法と いうのが設定制定されているんですが、ま 、それでも、ま、こういったその罵生体の ようなところていうのはどんどん、ま 、市街地に広がっていると。
で、石川曰ですね、その、え、こうした その罵生体では、え、アンチコミュニティ 的な空気が漂っていると。
で、あとはこの権臨的な感情がバスの外悪 となっていると。
え、つまりアンチコミュニティ、ま、 コミュニティに対するアンチの空気がある 。
で、権臨的、つまり臨人を嫌がるような 感情が、え、それが、ま、罵隊の特徴で あると、え、臨人との関わりを避けようと する抜の雰囲気。
え、これはま、え、雑な 回層、ま、いろんな回層、いろんな立場の 人たちが暮らしていて、え、住宅と焦点が 混在してるとか、え、あとは、ま、地区を ですね、無料に追加していく交通とかです ね。
この罵生隊体の、ま、住居とか、え、建物 っていうのですね、この区画整理の技術で 解決しようっていうのがこの石川の発想 です。
で、具体的にはこの公園あるいは 広場をですね、中心として放射上と同炎上 のガ路を組み合わせたパターンで、え 、区画整理を行うというのが妥当であると いう風にしています。
区画整理の目的と、 ま、いやばダラダラと続くようなですね 、ま、スプロール的に広がる市街地の中に 、え、外路と広場で個性のあるまとまりを 作ると、で、このまとまりとしての集落 っていうのをですね、石川重視している わけですね。
え、人類の社会性に根拠する 1つの住居形式、え、すなわち コミュニティの物価という風に言ってい ます。
で、ここでもやはり先ほどの コミュニティの約後として、ま、神話計画 コミュニティプランニングの役ました けれども、神話とか交換、え、という風に ですね、ま、訳している
で、物の携帯ではなくて人と人の、ま 、関係の質としてコミュニティを理解した。
で、これは、ま、その石川のですね、都市 計画家としてのそのコミュニティ理解の ですね、ま、非常にあの、特徴的なところ であると。
で、これは、ま、人にそのコミュニティに 対する方だけではなくてですね、この集落 、まとまりとしての集落を重視、え、これ もその投資にとっての価値でなくして、え 、むしろ都市が、え、集落のための価値で さえると、え、都市を捉える視点を ラジカルに転換していると。
ま 、ここにその石川の、え、都市計画の 特徴があったというのが、え、ま、その 必社がまとめるところですね。
これを、ま 、いわばそのコミュニティを作る技術とし て、ま、必者は評価化してるわけですね 。はい。
で、えっと、もう1人ですね、ま、 重要な人物としてですね、その コミュニティを作る技術の実践者、え 、取り上げられています。
それが、え、この 次の3節、「セルメントと、え、共同 社会」、え、この新ナトという、え、社会 事業化、ま、現在で言うとこのソーシャル ワーカーね、え、が取り上げられています 。はい。
え、もう1つの技術ということで ですね。はい。
えっと、まずちょっと用語の確認をして おきたいのですが、え、セルメントですね 。はい。セルメント。
え、これをちょっとマークチェックなど押して おいてください 。セルメントですね。
え、セルメント、え、どういう意味かと 言うとですね、え、地域の拠点を作って 設けて、え、地域の拠点で住民の生活改善 のために、え、持続的な支援を行うような 活動をしたり、え、あるいはその、その ためのコミュニティを作るような社会的な 技術、え、それを、え、セルメントという 風に言っています。 はい。
え、これがそのセルメントの意味と いうことでですね、これマーク、チェック などをしておいていただいて、え、それで 、え、このセットが何をしてるかっていう のをちょっと、え、押えといてください。
で、ここで、え、この書で取り上げら 、え、この説で取り上げられる、え、滋賀シナ 、え、滋賀シナトという風に読みますが 、え、この滋賀シナ、え、は、え、石川、え 、先ほどの都市計画家の石川、え、秀明と 、ま、ほぼ同じぐらいの時期にですね、え 、生まれて、え、活動していた。
ま、シ、え、その滋賀の方がですね、ま 、え、実はその在職中になくなるっていう ですね、急制するという 、え、まだ40代半ばでなくなってしま うっていう、え、それはあるんですけれど も、ま、大体はほぼ同じ駅の人であると 石川と。はい。
で、滋賀ですね、どういう 人かと言うと、え、大阪市ですね。
え、この大阪市で、え、働いていた、ま 、いわばその公務員なんですが、え、その 大阪市で社会事業と設動に従事していた人 であると。
で、大学時代はですね、その社会薬を先行 していて、で、え、大学を卒業した後、 大阪キ裂教年会主に就任、就任すると。
で 、その後、え、大阪市集所にですね、勤務 する。
で 、え、それで、ま、その説明運動社会 事業に従事していたんですが、え、ま、その 大阪市の社会部長ですね、え、に、え 、職についていた時に、ま、急制を、ま 、なくなってしまうと。はい。
ま 、そうした、ま、人です。はい。
で、この時期にですね、その新画が 、え、取り組んだこの時期に、ま 、社会事業と いうのは新た新しい展開を見せていたと 。
ま 、政府の関与であったり、ま、当事者が 内手となるような強度の発想が特徴だった と。
で、これはその明治時代にはですね、 ま 、え、このいわばその民間の、え、特殊 家や、ま、不裕層が、え、事前事業を行っ ていたのからですね、それとは異なるよう な社会事業のがあた、あの、新しく展開し 始めたのが、え、この対象から昭和初期の 時期にかけてだったと。 はい。
え、その中で、ま、この信画もです ね、その社会事業設に関わっていったと。
で、この滋賀の活動拠点となったのは大阪 市に作られた、え、この市民館ですね。
え、市民館という、え、日本で初めてのです ね、公営の設の拠点、え、大阪市が作った ものです。はい。
この市民館ですね。はい 。
この市民館マークチェックなどをしておいて ください。はい。日本初の公営 ルメント、ま、市民館ですね。
で、これはその大阪市の北部の、え、にの 、ま、あの、先ほど出てきた、あの、バス 隊ですね、あの、先ほど石川の都市計画の ところで出てきた、え、大阪市北部にある 、ま、罵隊に建設された、え、セルメント の拠点市民館です。はい。
ま、後に、ま、え、名前が解消されますが 、作られた投資 は市民館。はい。
で、どういう建物であったかというと、 地上4回近1階の、ま、適の建築であった と。
で、これは、ま、当時としては、ま、 かなり、ま、珍しい、え、ま、そもそも 、ま、こういう、ま、鉄コンクリート作りの 、ま、建築、ま、ビル、え、というのは、 ま、もちろん現在では珍しくないです けれども、え、この当時は、ま、かなり 、え、珍しい建物だったと。
え、実際にこの、え、大阪市のこの市民館 ですね、この鉄コンクリート作りの 、え、この市民館の建物はですね、この賞の この飛びアルの写真ですね。
え、この テキストの、え、て、この賞の1番最初に 掲げられている、え、この写真の高の建物 がその大阪市の市民館です。
で、ここを拠点として、え、この滋賀は ですね、え 、1935年までこの市民館の館長を務めて 、え、それ設理と、ま、社会事業を、え 、この市民館を拠点として行ったと。
で、具体的には、ま、その多数の団体を 設立したり、あるいはそれをその助言をし たりですね、雑誌に個人面で論したり、 エッセやあるいは何節のですね、え、ま 、台本を執筆したり、講演会を行ったり、 あとは日雇え労働者と区会、ま、廃行読む 会を、え、開催したりなどなどですね。
え 、専門家にとまらず市政の人々、ま 、一般市民、えと、え、たくさんネットワーク を築づいた ですね。
ま、専門家はもちろんなんですが 、一般市民、ま、まさにその市民官にを 利用するような人々、一般市民とも、え 、た くさんネットワークを築づいたってのが 、ま、特徴ですと。 はい。
で、この市民館ですね、この そもそもその設運動が行になった期限と いうことでですね、
この市民館、大阪のこの市民館、ま、日本 で初めての公営セルメント、え、公営、ま 、その、え、市が行う初めてだったわけ ですけれども、そのきっかけとなったのは その、その前に起こっていたコメ騒動で あると。
で、その米騒動で、え、これをま、 きっかけとして大阪市がこの市民館を、え 、設置するということを決めたと。
で、この実はこれはあの、大阪市だけでは なくて、え、当時その警戒されていた社会 っていう概念が一般化するようなきっかけ にもなったのであると。はい。
で、同じ 時期にですね、ま、その、え、明治、え 、明治期からですね、対象に時代を 移り変わっていて、その当時のその政府、 ま、国家、え、政府が社会政策を発表した のが1919年、ま、対正8年であると。
で、その時の社会政策ってのはどういう ものかというと、例えばその公営住宅を 作って、え、そこに、ま、一般の市民を 住ませたり、あと公の市場をで、え 、作っ たり、あとはあとはその定理士で融資を 、え、低定定理士、ま、定理で融資をすると か、ま、そういったことですと。
で、さらにその翌年にはですね、え、先ほど から何度か出ているその内務省ですね。
え 、その内務省という、え、中央省庁の中に 社会局という部局が設置されますと。 はい。
で、え、さらに同じぐらいの時期に ですね、その急制事業調査会というのが 社外事業調査会に回される、ま、組織変更 されるとかですね。
え、そういう時代で
あったと。はい。え、その中で、ま、接路面運動っていうのも起こってきたと。
はい。で、このやはりあのこの少し後にですね、滋賀はですね、え、その日本社会学会という、ま、社会学の学術団体がの、え、発行していた、ま、え、雑誌にですね、え、このソーシャルセルメントの期限及びその発達という論文を寄せます。え、こ、ま、ここで滋賀はですね、そのイギリスにルーツを持つそのセルメント運動の歴史を語っています。で、階級間の亀裂とその修復に着目している。これは先ほども少し出てきましたが、え、つまりその資本化と労働者の対立のようなですね、え、亀裂とその修復、え、それを、ま、え、中心に見ていると。で、元々このイギリスに、え、ルーツを持つ、え、セルメント運動、その発端というのはですね、え、オクスフォード大学とかケンブリッジ大学、これは、ま、現在ももちろんある、え、ま、イギリスの伝統ある大学、え、そこを、え、発端としていて、ま、そこでのその教養民主化運動、え、こ、これが、ま、そのセルメント運動のですね、あ、発端にあったものであると、ま、配布にあったものであると。
で、そこで例えばそのオクスフォード大学で当時講師を務めていた、え、経済学者の、え、トインビーですね、え、人が、ま、その、ま、例えばその、え、東ロンドン、ま、ロンドンの東部、イーストロンドンですね、え、その牧師館を拠点にしていたバーネット夫妻というですね、え、ま、その夫妻のその、え、セルメント活動に加入する、ええ、といったこともあった。ただ残念ながらそのトインビー自身はま、若くしてなくなってしまうんですが、え、ただやはりあのその東ロンドンのスラム街には注目が集まっていて、え、そのイーストロンドンの、え、大学にはセルメントが設立され、で、そこにはその、え、残念ながら亡くなったそのトインビーのホール、え、トインビーの名前をですね、か、え、名前をつけた、ま、そのトインビーホールというのが解説されてたりする。はい。
え、そうしたその、ま、イギリスでのセルメントというのはですね、滋賀は、ま、え、まず、え、その歴史を見て、え、その上でですね、さらにその続編として、え、そのすぐ後のですね、同じ雑誌にです、え、このソーシャルメントの精神と、え、その経営という、ま、続編を載せています。で、ここでは実際にその滋賀が、え、大阪で実際に自分で取り組んでいたセルメントの事業を語っています。で、ここでも注目したいのはその初期のセルメント運動ではですね、この先ほど見たイギリスのようにですね、初期セルメント運動では上流階級の人たちが、ま、貧民、ま、まずい、貧しい人たちのために犠牲となって奉仕するという、え、そういう姿勢が見られたものであった。しかしそれは偽善的な精神の現れであるという風に批判しているわけですよね。で、え、ま、現代セルメントの精神たるデモクラシーとは相入れないものであるという風にですね、ま、興味深い批判を行っているわけです。
で、こうしたその、ま、いわばその上流階級、え、ま、富裕層であるとかですね、え、そういったその上流階級が、え、その、ま、貧しい人たちに施しを与えるみたいな奉仕をするみたいなですね。それはまあ、中長期的にはあまりよろしくないと。で、さらにこっから、ま、議論を進めて、え、滋賀は2つの誘惑がセルメントに失敗をもたらすのだという風に述べています。で、2つの誘惑というのは1つは、え、スラムでの献身を通じて聖者の高みに登ることへの誘惑であると。え、つまり、ま、これはその上流階級はですね、え、の人たちが、ま、スラムで献身的に、え、貧民に対して施しをすると。で、それによって、ま、いやばせ自分がその聖者、ま、聖なる、え、人間に登っている、ま、そのようなその誘惑がある。ま、見られると。で、それが1つで、もう1つは、え、スラムについての知識や体験を売り物にして指導者にのし上がると。で、そうした誘惑があると。
で、こういう、こういう2つの誘惑が、ま、セルメントに、あ、は、え、こういう2つの誘惑に駆られて、え、それでセルメントに当たったとしても、え、それは、ま、え、長期的には失敗すると、え、つまりこうした同期というのは、ま、実はその住民たち、ま、この住民たちってのはスラムの貧民のような人たちにはもう見かされていると。で、場合によっては、ま、悪いとです、悪くなるとですね、活動、ま、その、え、そうしたその上流階級の人たちのようなですね、活動に対する依存や反抗を招く結果となると。え、これがその先ほど見たようなそのイギリスなどそのま、あのセルメントのですね、え、始まったイギリスなどでもま、え、セルメント運動の、ま、いやばその失敗となるようなですね、要因となりうることであるという風に、ま、滋賀は分析してるわけですよね。
で、そこでちょっと滋賀が、ま、注目するのはこのイギリスからですね、アメリカにわたって、え、展開されていたアメリカでの、アメリカ社会でのセルメント運動なんですよね。で、これはちょっとイギリスとはまた違ってですね、ま、イギリスからアメリカに渡って、当たって行われていたセルメント運動っていうのはですね、ま、民衆化し、職業化して犠牲的、英雄的色彩を失ったっていう、ま、そういう特徴を持っていると。まあ、だからその上流階級の施しみたいなものではなくてですね、え、ま、民衆化しているで職業化、ま、職業化ってのは別の言い方だと専門家ですよね。で、犠牲的、英雄的色彩を失ったという。で、あくまでその活動の主体、ま、セルメント運動の主体は住民っていう原則になっていると。そこが重要であると。で、外から導入される改善ではなくて、うちから発見される自然に沿った改造円が必要であると。はい。
このどちらかというと滋賀はですね、そのイギリスの、ま、初期のセルメント運動は、ま、批判した上で、え、その同じ時期にですね、この滋賀が大阪で、え、取り組んでいたのと同じ時期に、え、やはりそのアメリカでアメリカ社会で行われていたようなセルメント運動、え、それに注目してるわけですよね。で、この、ま、え、民衆化して職員を化して、え、犠牲的英雄的記載を失ったアメリカのセルメント運動ってのはですね、先ほど見たその滋賀が注意を促した、え、この2つの誘惑ってものとは関係、ま、え、かなりこの2つの誘惑からはですね、かなり、え、遠いところにある。この2つの誘惑がないってところがアメリカのセルメント運動の、え、評価できる、え、ところであると。ま、肯定的に評価できるところであるってことを指摘してるわけですよね。はい。
で、そこで実際にその大阪での、ま、活動として、え、市民館でですね、セルメント事業として社会調査やケースワーク、グループワークといった有機的連絡を通じて、え、人と人との関係の規制をすると、え、これがま、え、実際にその滋賀のですね、え、大阪での市民館での取り組みとして、ま、定義されてるわけです。はい。で、実際に市民館でですね、どういうセルメント事業を行ったかってことを分類してるのが、え、この133ページの表の5の2です。はい。ちょっとこちらを参照してください。はい。
で、この、え、共同社会の組織化という説にちょっと移りますが。はい。で、ここでのその市民、え、市民館のですね、問題定義として、ま、この現代のセルメントの精神とは何かということです。はい。え、これ実際に、ま、え、滋賀はやはりあのこの、え、論文自身の考えをまとめて論文として発表してるわけですが、その民主の手によって行う民主の社会事業になると。はい。ま、ここでそのコミュニティオーガニゼーションの理念を定義していると。はい。はい。このコミュニティオーガニゼーション。これもちょっとマークチェックなどをしておいてください。え、コミュニティオーガニゼーションです。はい。で、ここでのコミュニティオーガニゼーション。ま、オーガニゼーションというのは、あの、組織という意味がありますよね。オーガニゼーション。ま、あるいは組織化するってことですけれども、コミュニティを組織化すると。で、ここでのコミュニティオーガニゼーションの意味というのは、え、先ほどから出てきているこのセルメントと、ま、ほとんど同じ意味であるという風に、ま、考えて、え、よろしいかと思います。はい。コミュニティオーガニゼーションですね。ま、ここでの意味は、ま、え、セルメントとほとんど、まえ、同じような意味で、ま、コミュニティを組織化する。え、それによって社会問題の解決を図ると。で、社会、え、そうした、え、活動に従事する社会事業やソーシャルワーカーを、ま、え、その市民を結合し、彼らを経営に参加さる仕事に、え、反せられたるエンジニアあるいは社会技師として、え、位置づける、ま、エンジニアですよね。だからあるいは社会技師、技師ってのはエンジニアのことですよね。え、そのように、ま、位置づけていると。
あとはまた別のところで滋賀はですね、え、ま、現代のリンポ事業の使命ということですね。え、リンポ事業、え、これは、ま、セルメントと言い換えてる、言い換えられるわけですが、そのリンポ事業の意義と使命として、え、この共同社会を復興すると、え、共同社会を組織化する。ま、商業主義的、個人主義的、個人の利益中心的及び、え、外面的結合を中滞とするような利益社会を、え、ま、批判し、え、それに抗がってですね、利益社会に抗がって対抗して、え、共同社会を復興するっていう使命を帯びた、ま、そうした社会技術としてセルメントを、え、使っていくと、え、技術化、え、それでコミュニティを組織するという、え、そういった問題提供を、ま、幸していたと。はい。え、というようにまとめられます。はい。
で、え、それで、ま、最後の説、4節に移りますが、え、中間指導者の役割っていうことですね。はい。で、ここでは、ま、ま、この説は、ま、まとめのようなものですがはい。え、コミュニティについての思考のバリエーションってことですね。ま、これまで見てきたように、ま、これまでその石川の都市計画と滋賀のソーシャルワークというのを見てきました が、ま、いずれも、え、コミュニティに注目していたと。で、しかもそこではです、日本の、え、事例とあとはその諸外国ですね、ま、欧米諸国などのですね、諸外国でのそのコミュニティへの取り組みってのをですね、同じ時期のコミュニティへの取り組みっていうのを見て、え、それを見着目していた。え、それはま、え、欧米諸国も日本でも、ま、ほぼ同時期に起こっていて、え、グローバルな現象であるという風にまとめられています。え、ただしその、ま、え、この石川の都市計画とか滋賀のソーシャルワークっていうのはです、え、現場に、ま、根付くことで意味をなす技術であると。で、ここではその、ま、実際にあの、毎日のように起こってくる、え、発生していた当時のその課題や問題に対処するための先行事例の、え、探求をしていたと。で、それと共にその外来の概念、ま、例えばコミュニティなんかまさにそうですけれども、え、その外来の概念をローカル化する、ま、日本に、日本の文脈に置き換えて考えてみると、え、そうしたその二重の課題あるいは二重の困難と言ってもいいと思うんですが、ま、そこに、ま、直面していたっていうですね。
で、いわばこの石川や滋賀がこうしたことに取り組んでいた時期にですね、コミュニティへの期待が高まっていたと、え、いう風に言えるわけです。え、ただこのコミュニティへの期待ってのもですね、この時期だけではなくて実は周期的に、ま、繰り返し現れているという。で、例えばそのイギリスの社会学者のニコラスローズという、え、人はですね、え、そのコミュニティについてのですね、え、コミュニティに関する現説の検選を、ま、え、論じてまとめています。で、それ136ページの表5の3という風になってますけれどもに、ま、そこに示されてます が、ま、ローズに、え、よるとですね、そのコミュニティが、ま、失っていう手題、え、や、え、コミュニティを作り直したり、で、その利益を何か代用したりする、え、そういう必要についての論議というのはですね、19世紀後の国家のあり方について、え、批判的な考察の中に驚くほど、え、規則的に、え、浮上すると。はい。だだから繰り返し、ま、その今期限への期待みたいなものは、ま、え、現れていると。
で、ここでは最後にですね、そのコミュニティのとしての企業ということで、このコミュニティってのは実は地域社会には限られなくてですね。え、特にその日本的な文脈で考えると、え、いわばそのかなり強い、え、コミュニティとして考えられるのが企業、え、企業社会であると、ま、会社ですよね。はい。で、その日本の企業の特徴というのは、ま、色々あるわけですけれども、え、特にま、え、重要なその特徴の1つというのはですね、メンバーシップ型であるのが日本企業の特徴であると。日本企業で主流の働き方であると、え、具体的には新卒一括採用であるとかですね、え、年功序列や終身雇用といったものであると。で、この、え、日本企業では当たり前とされているような、え、こうした、え、制度、え、これをメンバーシップ型と言います。はい。メンバーシップ型、え、チェック、マークなどをしておいてください。はい。
で、このメンバーシップ型の雇用は、まあ、日本では当たり前かもしれません が、世界的に見るとですね、え、当たり前ではなくて、え、例えばその欧米諸国では、ま、このような働き方は基本的にはしないわけですね。え、欧米諸国など、あ、世界の多くの国ではですね、どちらかというと、あの、メンバーシップ型というよりもジョブ型、え、という、ま、え、働き方が主流です。はい。え、ジョブ型、え、これも合わせて押さえておいてください。あの、ジョブっていうのは仕事のジョブですね。はい。え、メンバーシップ型の日本と、え、ジョブ型の欧米諸国などね。はい。
で、やはりあの、メンバーシップ型の特徴の1つとして、え、労使関係も上げられます。はい。労使関係、つまり労働者と、え、労働者を雇うが、ま、経営者サイド、え、それを労使関係、その関係を労使関係と言いますが、労働者サイドと、え、使用者、ま、つまり、え、労働者を雇う経営者ですね。え、その関係でこの、これもやはりあの、メンバーシップ型とジョブ型では結構異なっていると。で、メンバーシップ型の場合、労働組合への参加というのもですね、同じ企業の中にある1つの労働組合に参加するっていうのが当然となっている。で、これはジョブ型の、え、国だですと、え、職種別の労働組合ってのがあって、その職種別に、え、労働組合に入ると、え、ところが日本のようなですね、メンバーシップ型だと、え、その企業の中の、え、労働組合に参加するるってのが当たり前になっている。で、そうなるとその、その会社の労働者と経営者の利害がが、え、一致することが多い。ま、少なくともジョブ型のようなその職種別、触手別労働組合とは、え、よりも、ま、あの、労使官のですね、労働者と経営者の利害が一致しやすいと。で、従ってそのメンバーシップ型の場合は、ま、経営者と従業員の総合依存関係が生まれやすいと。で、これをですね、日本の、ま、社会学者、特にその産業社会学という分野を研究した、え、日本の社会学者羽入という社会者は日本的老子関係の核心というのは、え、労使が協力して、え、コミュニティを形成することにも、え、と、いう風に説明しています。え、羽入博士はですね、その、え、労使が協力してコミュニティを形成すること。で、ここでのコミュニティっていうのをですね、ま、え、生活共同体という風に訳されています。はい。
ま、そうしたその、まあ、え、労使間の、ま、総合依存関係みたいなもの、え、それは、ま、その労使がいば協力してコミュニティを形成する。で、ここでのコミュニティってのはその企業内のコミュニティですよね。で、生活共同体であると。え、そのように、ま、この羽入は、ま、まとめているんですけれども、で、こうしたその日本企業の、ま、メンバーシップ型の特徴というのは、え、かつて、え、日本が経済成長していた、例えばその1970年代ぐらいとかですね、え、そういう時期には日本企業のが、ま、世界的に、ま、強い、え、その理由として、ま、厳選として評価されていました。え、ところが現在ではですね、ま、正規社員、え、正規の従業員の長時間労働にこうした特徴が繋がっていたりとかですね。あとはその雇用形態で、え、非正規の従業員への低待遇、ま、差別的な待遇です。ま、あとはその正社員と非正規社員の間の格差みたいなものに繋がっているとかですね。あとはそのそもそもま、その日本の社会保障制度というのが企業福祉を前提としていると、ま、企業が、ま、その福祉を担うってことを前提としていることに、ま、その日本の社会保障制度が実は脆弱なんじゃないかと。ま、企業に頼りすぎていると、ま、それを、もたらした要因として現在ではこのメンバーシップ型の特徴、え、というのはですね、批判されることもま、え、多くあります。
ま、いずれにしてもですね、このメンバーシップ型の特徴というのはですね、産業から資本主義が進む中で形成されてきたものであると。で、これは先ほどあの田園都市の説明のところでも少し触れたようにですね、え、ま、その階級間の対立、具体的には労働者と、その労働者を使う給料を出す資本家や経営者の間の対立。で、これを放置しておくと、いずれ社会主義や共産主義が台頭してきて、え、まずいというですね、え、それを回避するため、そのために、え、資本家経営者は労働者の、ええ、住環境とか生活環境とかせ、ま、を、え、ある程度は保証する必要があると。で、それを、ま、その階級対立みたいなことを回避する手段として、例えばその社宅を整備するっていうのが、それが田園都市のですね、ま、え、で、田園都市の計画で定義されたもの1つであったと。はい。いうことちょっとここでは振り返っておきたいと思います。はい。
で、ここではですね、その中間指導者としての実務家ということでですね、こうしたその労使関係というのは別にあの日本でですね、この自然発生的にできたってわけではなくて、え、このま日本の、中での資本主義のその起こってきた日本の、中での資本化資本主義化産業化が進みつつあった時代に、え、ま、ある種こう普及してきたのがこのメンバーシップ型の特徴であると。で、その普及に一やく買っていた、え、人物としてここでは、え、宇野門というですね、え、人物が取り上げられています。中間指導者としての実務化ということですね。え、で、宇野門はえ、この宇野はですね、え、ま、現代で言うところの経営コンサルタントのような人でした。ま、当時はもちろんあの経営コンサルタントという肩書きはま、え、そうそう、やれてなかったわけですけども、現在言うとあの経営コンサルタントみたいな人ですね。で、19世紀の後半からまあ20世紀前半にかけて、え、どういうことを行っていたかていうとですね、え、この宇野は、え、日本全国の工場とかあとは、ま、企業ですね、会社を尋ねて、ま、いわばフィールドワークをしてですね。で、そこで、え、それが、ま、1910年代から20年代ぐらいで、その、ま、え、工場や企業を全国に尋ねて、で、そこで色々調査をして、え、取材をして、え、それをもとにですね、企業の、え、幹部、中堅ぐらいの幹部ですね、企業の、中堅幹部に、え、出版物、ま、つまり本や、え、論文を出したり講演や講義を行ったりして、え、ま、その、ま、いわばその経営コンサルティングをするわけですけれども、え、そこでは職行優遇論というのが定義されていました。え、職行優遇論、え、つまりその働いている、え、その工場とか会社で働いているような職人や工場労働者、ま、労働者ですね、そういった人たちを優遇せよということを提示していた。ま、要するにあの社員従業員を、え、優遇して、ま、え、手厚く、え、生活、生活保障する必要があるってことをま、解いたわけですね。
で、ここでのはその工場コミュニティ、企業コミュニティってことをですね、ま、思考していた、え、というように、あの、先ほど見た、え、日本の社会学者の、ま、羽入はですね、ま、え、あ、指摘してるわけですけれども、で、この宇野はですね、ま、この宇野が、え、この時期に活躍して、この後に、日本企業で実際に主流となるようなですね、ま、例えばさっき、先ほど見た、ま、終身雇用とかですね、え、年功序列とか、え、企業福祉とかです、あとは企業別労働組合といった、え、そうした変化を、ま、え、先じて、え、宇野は捉えて、え、これらをですね、ま、こういったことを行うように、え、その企業の幹部、工場の幹部などに働きかけていたのが、ま、その宇野のこの職行優遇論っていうものだったんですね。え、労使関係に関わる時代の変化を、ま、え、敏感に捉えて、で、それで中間指導者としていわばですね、え、日本的老子関係を支える制度の促進や定着に貢献したのが宇野の功績であったと。え、中間指導者というのはここではですね、え、そのまさにその資本家、ま、つまり会社工場の経営者と労働者とその間に立って、その中間的な立場から指導者として、え、中間指導者として、え、ま、色々提言をしたりする。で、それで、ま、日本的な労使関係を、え、の形成に、ま、必要かかったと、え、いうその宇野のですね、ま、え、取り組み、功績が、ま、ここでは最後確認されています。
で、ここで、ま、この賞の著者は、ま、先ほど出てきた、え、先ほどまで取り上げられていた、え、都市計画の、え、石川であるとか社会事業ソーシャルワークの滋賀、え、というこの2人についてもやはりそのげ、え、ま、その専門家として専門的な知識をですね、インプットしてで、それを、ま、現場で、え、実践する、自分であの、現場に立って、前に立って自分自らこう実践すると。で、それはま、時にそのと専門家と、え、一般市民との間にですね、中間的な立場から、ま、指導する。ま、この石川とかですね、え、本省で見てきた都市計画家の石川とかソーシャルワーカーの滋賀、え、これらの人物も中間主導者、中間指導者として、え、位置づけられる、え、という風に、ま、この賞の著者はまとめているわけです。で、このこれらの、ま、実務家の観点、ま、都市計画家やソーシャルワーカーといった実務家の観点から、え、コミュニティっていうのをですね、組織技術を、え、考え、思考しで考えただけじゃなくて現場で、あの、同じ時期に実践していたと。で、その実践からさらにコミュニティの思考を練って連していったという、ま、そこにその、ま、え、コミュニティを組織する技術を、え、作り上げていった、ま、え、都市計画家の石川とソーシャルワーカーの滋賀の、ま、功績があると、え、いうようにですね、ま、この賞の著者は、ま、最後にまとめています。はい。え、ということで、え、この、え、賞の内容は、え、以上となります。