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「教養がある人とない人の違いとは?」| “ただの博識”と教養人の決定的な違い【大場一央 / 早稲田大 非常勤講師】

大場ゼミ | 賢人たちとの対話 (大場一央公式チャンネル)15:18

Transcription

共容養っていう言葉ですね。これは明治以降に登場した言葉で明治以前近代以前には存在しない言葉だった。

つまり講師はですね、知識っていうのは、ま、確かに大事だけれどもそれをかに自分自身に落とし込めるかということが問題だとこういう風に言ってるわけですね。

それではおば先生、今回もよろしくお願いいたします。

よろしくお願いします。

今回はつまりこう共養とはどのようなものなのでしょうかということについてお伺いしたいと思っております。ま、共容と聞くといろんなことがあの連想するかなという風には思いますが共容についてかの健人から学べることがあれば教えていただきたいです。

はい。共容っていう言葉ですね。これは明治以降に登場した言葉で明治以前近代以前には存在しない言葉だったと。

あ、そうなんですね。

はい。あの熟自体はあるんですよ。ただこれ仏教語ですね。死んだ人を苦養するって意味なので全然意味が違うんです。

なんか全然今のイメージとは違いますね。

そうです。だから苦養とは何でしょうかって言われたら、これもう僕答えることできないんですけれども、あの、多分近代以降のですね、わゆる共容という意味だと思うので、これちょっと考えてみましょう。

はい。で、共容って言うと、じゃあ何なの かって言うとですね、基本的には知識を蓄えることによって、ま、自分自身の人間性や人格の向上であるとか、あるいはです ね、ま、いろんな意味があって、ちょっと一般人の常識よりも抜きんでるといったような意味があったりとかマちまちなんですよね、実は。ただ外しって言えること は、え、本を読んだりですね、ま、あるいは、あ、演劇見たりとか、音楽干渉したりとかっていうようなことをしてですね、ちょっと日常生活よりもワンランクアップするっていうようなニュアンスで捉えてる人が多いんじゃないかなと、こう いう風に思うわけです。

じゃあこれに対して、え、それでいいというかと、言うと、どうやら多分ですね、ま、講子当然共容なんて言葉知りませんから、え、直接言ってるわけじゃないんですけど、ただ、あ、共容って言われると面白くない顔をしただろうなと思われる言葉があり ます。それは何かと言うと、え、地位これに及ぶも人これを守ることをあわざればこれをうと家ども必ずこれを失うという言葉があるんですね。で、これは何かと言うと地まこの場合の地って大した意味じゃなくて知識という意味でいいと思い ます。知識が及ぶ。すなわち知識が自分の身についたとしても 人これを守ることす。というのはこれも大したですね、思い味がありません。おそらくこれはあ、人間性とか性格、人格ぐらいの意味だと思います。性格や人格に置いてこれを守ることができない。すなわち知識っていうものが自分の人間性や人格というものにしっかりと浸透していないと。そうすることによって、え、そうした知識ってのが離れていってしまうと。ま、これどういうことかって言うと、よくですね、あ、あの、本は読んだとか、あ、音楽は聞いてるだとか、あるいは演劇を見ただとかって、ま、やたらいろんなことに詳しいんだけれども、しかしながら、あ、いざとなった時にはですね、天然役に立たないと困ったこと相談してもですね、もう毒にも薬にもならないようなアドバイスしかできないというようなことであれば、これ をうといえども、これを得たとしても、この知意識を得たとしても必ず失うもの であるというこういう言い方をしてる。

つまり講師はですね、知識っていうのは、ま、確かに大事だけれども、それをいかに自分自身に落とし込めるかということが問題だとこういう風に言ってるわけですね。

で、そうして考えてみますと、特に近代以降の共容っていうのは、ま、いろんなバリエーションがあるんですよ。で、バリエーションがある中で人格やあ、人間性の向上を目指すっていうことを目標に掲げている共容っていうのもあるんです けど、ただこれは、え、授教で言うような講師が目指したような人間性や人格っていうよりも、むしろですね、近代以降の人間っていうのは個人というものを文じてました。で、この個人っていうのは自分の出身のですね、地域であるとか家族あるいは国といったようなものの制限、すなわちそこの価値観であるとか考えっていうものから全て解放されて完全に自由にものを見判断し感じ取るというそういった個人というものを育てるという意味での人間性あるいは人格なんですね。これをたくさんの知識を得ることによって育てる ことができると言うんですが、そんなこと は果たして可能だろうかと。我々は自分が生まれたですね、家あるいはあ、地域そして国といったものの価値観をベースにしつつそれをよりよくブラッシュアップしていくというやり方でしかね、自分自身というものを向上させることはできない。なぜかと言うと、我々が物を見たり考えたり感じたりっていうのは必ずそういったベースがあって初めてできるものであって何もないところで物を見たり考えたり感じたりすることは不可能なんですね。

これちょっと難しい話になるんですけど、例えば人間の認識っていうのは言葉に引っ張られる傾向があると言われていると。すなわち日本人はですね、色の識別っていうのがやたら優れていて、[鼻息]外国の人が見るとど、全部赤だろっていうようなものでも、いや、あの、くれないだとか、あ、主色だとかってもうとにかくたくさん名前つけて分類してるわけです。で、確かにそれ違うんだと。ただ言葉に よって分類されていない外国の人たっていうのはそれが全部レッドにしか見えないっていうことで言葉が分類されてないと認識自体も合理的にすなわち客観的に見るっていうよりも全部統合しちゃって1つのものにまとめちゃうっていう傾向がある。言葉が認識を引っ張るんですね。

そうして考えてみると、我々日本人がですね、あ、物を見たり考えたりする時は日本語に引っ張られていると。そしてその日本語っていうのは常にですね、あの独自の価値を含んでいます。例えば、え、家とこういった時ですね。これはホームであるとかファミリーとは決定的に異なるんです。ホームであるとかファミリーっていうのはあくまでも各家族におけるあですから完全 に自立した男性と女性が個人の契約関係によって結婚してその結果個人としての子供が生まれました。従ってこのホームやファミリーっていうものに付随するのはどこまでも個人っていうものを尊重して赤ちゃんですら例えばイギリスとかではあのもう生まれた時からですね室で寝かせるっていうあの夫婦の寝出は別にするなんていうようなことをするとそういった価値基準っていうのが付随してるんですよ。で、ま、そんなことって言うかもしれませんけど、そういった言葉が無数にあって組み合わさって英語っていうものができると英語で思考する人たちは自然と個人主義的な考え方になるようになってる。日本の場合は家と言うと必ず男性側の家、女性側 の家があってそれぞれ1つの小国家のよう に全部役割分担されていてそれぞれの立場と役割っていうのがある。その家同士が婚姻することによって新しい家組織っていうものを作っていくっていうこういう考え方がありますから当然日本語を使うと組織的な考え方になっていくし立ち人間は必ず個人ではなく立場と役割によって生きている。だから他の人に対する感謝であるとか距離感であるとかっていうものを大事にしようとこういう風になる。

面白いのは外国の人がですね、日本語使った時に性格が変わるらしいんですね。

へえ。

要するに今まで英語の人たちが英語で喋っていると自己視聴いくらでもできたんだけど日本語でずっと日本語和者として生活してると不思議と自己主張ができなくなってくるっていう話を聞きました。これは個人の体感なので果たしてもう絶対そうか分かりませんがただ頷けるものなんですね。敬語を使ってですね、丁寧語を使ってって真面目にやってったら勢いですね。あ、そういった言葉遣いで生きてると自己主張なんていうのは低くなるに決まってるんですよ。

つまり人間というのはそうしたあ、家だとかあ、地域だとかあるいは国だとかっていう価値観をベースにしてその上でものを考えてより良くしていこうってやり方でしか自分自身を確認することは不能なんですね。そうした時にじゃあ共容って近代で言うですね、共容すなわち本をたくさん読みましたと。世界中の文学前を読んで哲学書も読んでもうギリシャローマからですね、仏教から近代ヨーロッパ哲学からですね、授教から何から仏教から全部読みましたと。こういう人が本当にですね、そういったものを超越した国や地域や家を超越した価値観を持てるかって言ったら持てませんね。だってそういったものをいくら読んでも結局自分は日本語和社として生活してるわけですからそこから脱却することはできない。逆にそういった変な知識がつけばつくほど余計な理屈を振り回して生活するので結局そういった知識っていうのは同じ日本語同士で日本社会の中において日常起こってくる人間関係や仕事の悩みをですね相談したとしても役に立たないんですよ。それはインドの話でしょと。それはギリシア、ローマの話でしょ。それはドイツの話じゃないかて。こういうことです。

だから共養が深まれば深まるほど、すなわちかつて高校であるとか帝国大学でですね、やたらといろんな本を読みましたと。日本社会は遅れてるなんていうことを言う人であればあるほど、ま、こいっちゃなんですけど、実会に出たら役に立たないと、あるいはエリートとして随分ですね、高度な理屈をこねくり回すんだけれども、政治をやらせてもあるいは社会評論をさせてもちっとも当たらない、役に立たないとこういうことが起こってくると。だから、あ、そういったものであれば学問に害と言わざるを得ないわけであって、講師は当然ダメだと言ったでしょうね。

そうすると、じゃあ大事なことは何?言うと、先ほども言った通り人これを守るということ。すなわち我々はそのですね、物事、ま、読書であってもいいけれども、あるいは演劇や音楽でもいいかもしれない。こういったものを見た時に結局自分自身にとって何の意味があるのかということを考えるべきでしょうね。すなわち劇で本を読んだりとかすることによって果たして家族はいいはの関係はまくのかとあるいはそういったことに何かが隠されてるだろうかいいは自分自身が今抱えている問題に対して何か有効な考え方を提示できてるだろうかとこういう体数を自分に転換して持ってくることによって答えを外に求めて自分自身を変革するのではなく、自分自身が持っている問題に対する答えが存在するのかっていう聞き方をすることによって初めて生きるし、浸透してくるわけです。

で、そう考えてみますと結局う古来のですね、古典になしという結論にも当然なってくるわけですから、ま、変に共容を深めようなんて言ってですね、柄にもないようなものを読んだり見たりするぐらいだったら、それこそ自分が親しんでいるう、本であるとか、あ、あるいは日本人が昔から愛読してるものていうのを、ま、先回読めばそっちの方がずっとよろしいんじゃないでしょうかということだと 思います。

おば先生、今回もありがとうございました。

ありがとうございました。

日本人としての生き方を示す道はかつての健人たちの教えにあります。しかしながら現代では今だけ金だけ自分だけと呼ばれるような西洋の思想の悪い部分を取り入れた考え方が流行してしまっています。

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