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た大学の質問コーナーです。いつも動画で学ばせていただいております。ありがとうございます。
はい、ありがとうございます。成功という言葉がありますが、これを「なす」とも捉えられるし、「なる」とも捉えられると考えています。
「こなす」のであれば、良い結果を自らの力で掴み取りに行くような主体的なイメージ。
「こうがなる」であれば、良い結果が向こうからやってくるような受け身なイメージかと思います。
自分はこれまで「こうをなす」というような、頑張って結果を出しに行く考えでやってきましたが、最近は「こうがなる」という考えに変わってきています。努力をするかどうか、どのように努力するかは自分自身でコントロールできますが、最終的な結果はコントロールできないことが多いと学んできたためです。
競技や人生、仕事など、何を対象とした成功を考えるかによって変わるかもしれませんが、たかさんはどちらの考えに近いでしょうか?また、その理由もお聞かせいただけると嬉しいです。
はい、これはもう非常に私の大好物なご質問でですね、あのいろんな角度からお話しできると思うんですけども、え、2つですね、お話ししたいなと思います。
まずはですね、あのこのイメージですね。これ、おっしゃるようにですね、我々はコントロールできるものとできないものがあるわけですね。これは、まえ、仏教でも同じようなこと言ってますしま、グローバルにはストア派の哲学ですね、ストイックの語言となったストア派の哲学の中に、「コントロールできないものではなく、コントロールできるものに意識を向けよう」という言葉があります。
これ、要するに、コントロールできないもの、例えば他人や過去ですね。過去も変えられないし、他人が自分よりもいい結果を出すこともコントロールできない。ま、この意味では、今回、こうをなそうとしたとしても、自分よりももっとこうをなす人がいれば、まなすこともできないしま、また世の中もですね、また非常に複雑でコントロールもできないという意味では、それはま、自分のフォーカスすべきものではないだろうと。
じゃ、フォーカスできるのは何かって言うと、今の自分が一生懸命やるというのはコントロールできるので、それをやりましょうというのがま、ストア派の哲学になりますね。で、そういう意味では、ま、あの、色々人生経験積んでいくとですね、ま、端的に言うと、ある程度意欲があったり能力がある人ってのは、万能感を持って若い時期を過ごすわけですね。「自分は世の中を何とかできるんじゃないか」と。ま、そういうこと思いながら世の中をこうコントロールできるっていうんですかね、結果をコントロールできる。「いずれ私は絶対やってやるぞ」と、そういう思いでやってるんですけども、ま、いろんなものに阻まれたり経験していく中で、思ってるよりも世の中ってのは自分の思い通りにならないし、え、ま、雨が降ることすら私たちはコントロールできないし、ま、さをするしかないと。
ま、その中で自分のできることやってくっていうのは、全体からするとこのぐらいなんだけど、ま、逆に言うと、ここだけ一生懸命やったって相当あの人生ってのは変わってくんだよねと、ま、こういうところに着地することが多いわけですね。ですので、ま、なんとなくおっしゃってることは、人生前半の「こうをなす」と、あの、人生後半の「こうがなる」という感じかなという風に思っております。ま、こういうことって非常に世の中的にも多くありますよね。例えば登りの何でしたっけ、登りのあの皇子なんかも、登りの論語かな。ま、とにかく、孔子の言葉が前半と、で後半は老荘思想という風に言われていて、ま、比較的孔子の方が現世にフォーカスをした、え、世の中で自分たちはどうしていくべきかと。で、老荘思想ってのは、ま、胡蝶の夢に代表されるようにですね、え、今の世の中と一体、幻。今の世の中は一体何が本当なんだろうかっていう、ま、幻的な、ま、パラレルワールド的な世の中を捉えるわけです。
これ、胡蝶の夢、もし占の方のために端的に申し上げるとですね、ま、これあるエピソードなんですけど、ま、老子がですね、ちょっと横になって寝ていて、自分が蝶になってこう飛んでいく夢を見るわけですね。寝てる夢の中で。で、ふっと弟子の言葉が何かで目が覚めて、それで弟子に、え、自分がそのことを言うのかな、「蝶に乗って飛んでいたのだよ」と。で、その時に弟子に対して老子が、「私が蝶の夢を見ていたのか、蝶が私の夢を見ているのか」っていう風に問いかけるわけですね。ま、老荘思想は、ま、あの、このようにですね、とにかく何か根拠を求めてリアリティをあの突き詰めていくとですですね、ま、そんなものはどちらにもないよねと。「今のこの私が認識してるこれがリアリティ、リアルだ」っていう保証も何もないよねと、いうそういう前提に立つので、ま、前半の比較的現世をじる孔子の考え方と後半の老荘思想ということなんだ。ま、もう少しこれディープな話みたいで、私はの大雑把なあの理解でしかいないんですけども、そういうことかなと思います。
で、というのがま、今の答えの一般的なところなんですけど、もう少しディープに入るとですね、成功って何でしょうかっていうことなんですね。ま、一般的な社会的な成功ってのは、え、社会的な地位が高いとこに行くとかですね、収入が多くなるとか、また欲しいものが手に入るとか、ま、そういうものがいわゆる成功だろうと思うんですけども。でもこれは非常に実は時代と共に変わっても来てるわけですね。成功の定義もですね。こんなにあの、なんてでしょうね、資本主義が広く広まって、誰でも起業ができるっていう時代なんて、ここを本当最近ですから。人類史で言えば300年前にはもう日本でも起業なんてはとんでもなかったわけです。ちょっと前が江戸時代ですから。
我々、ま、そう考えてみると、本当ここ最近の価値観で世の中を見ていくとなんかまるで全ての人に全ての道が開かれてるように見えますけど、ま、場所を自動に自動移動自由になれたりとかですね、階級を自由に行ったり来たりする時代なんてなかったわけですから。そういう意味ではとても今の時代ってのは良い時代とも言えますし、チャンスが広がってる時代とも言えますし、一方で、え、非常に自己責任っていうんですかね、あの移動が自由っていうことは、え、選べたを選べるわけです。我々努力で何とかなる時代になりました。そうすると、何ともならなかった時には「努力が足りなかったあなたのせいですよね」と。階級のせいでもないです。生まれのせいでもないです。みんな自由な条件、平等な条件からスタートしてますから、もし成功してないならあなたのせいですよね、というのが近代における私たちにけけてくる非常に厳しい、え、なんて言うんでしょうね、見方ですよ。これがまあ、以前であればこれ、自分のせいじゃないわけですから、その場所に縛りつけられて、階級に縛りつけられるってのはこれれは私は圧倒的にその時代の方が嫌ですけど、でもその時代は少なくとも自分のせいではなかったっていうことは言えたかなと思います。
ま、この辺りのこともマイケル・サンデルさんがですね、あの、なんだっけな、あれは「運も実力のうち、実力も運のうち」かな。日本語のタイトルで、ちょっと英語のタイトルはとにかく、メリトクラシーについて書いた本ですけども、それはとても面白いかなと思います。
で、話は戻りまして、成功とは何でしょうかっていうことが、おそらくこれの究極的な問なんだろうと思うんですね。社会的な成功を求めていくというのは、まあ、まず1つ分かりやすい形ですけども、人生のある段階から自分なりの成功をみんな考え出しますよね。で、自分なりの成功ってのは、自分で成功を定義しないことには成功が固まってこない。で、みんなが求めるような成功を手にいれる人生を生きたとしても、満足いかなかった人が「じゃ一体何なんだろう、この虚しさは」とかですね、ま、そういうことを思い悩むっていうのが、まま、彼に成功した人であってもですね、あるというのがま、難しい点かなと思います。
ですので、成功とは一体何なんでしょうかっていうところから、それは自分でなすことができるのか、それともなることができるのか。実は私は、あの、この自分なりの価値観を定義できるという前提でですね、社会ってのは多く成り立ってると思うんですね。「自分の価値観を定めよ、ビジョンを定めよ、自分なりのえ、成功軸を固めていこう」って、ま、こういうのが自己啓発的な考えですけど、実は私はその軸自体が人生の様々な出会いによって由来でいき変わっていくもんだと思ってるんですね。
で、そうすると全部掛け合わせるとですね、自分が成功しようと思ったところで、何が成功かって定義自体が人生の出会いによって変わっていくという、このような曖昧もことした世の中を私たちはへっちゃらほちほちていって、ある瞬間が訪れると、「ここまでだったか」と言って死んでいくというのが私は人生じゃないかなという風に思っております。
ですので、「こうをなす」というのが始まり、そして「こうがなる」ということが来て、最後は「どうでもいい」という「あるがまま」というのが人生の境地なのかなという風に私は考えております。
え、非常に興味深い質問、ありがとうございました。
た大学ではですね、皆さんの質問に対して回答するということでこれ成立しておりますので、是非質問いただければありがたいです。