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SNSに何も投稿しない人達の心理学的傾向

神のみぞ知る17:33

Transcription

私たちは今、あらゆるものが共有される世界を生きています。お誕生日、コーヒー、夕やけ、涙、笑い、そしてフィルターで演出された痛みや悲しみ。SNSには誰かの生活が、誰かの人生のハイライトが絶えず流れ続けています。

ですが、よく考えるとこの世界にはほとんど姿を見せない人たちもいます。彼らは静かにスクロールし、観察してはいるものの投稿も反応もほとんどしない。あるいは投稿したことすらない。あなたの周りにもそんな人がいるかもしれません。もしかするとこの動画を見ているあなた自身がそうかもしれませんね。

彼らは決して少数ではありませんが、この沈黙について疑問に思う人もいます。「世界中が注目を集めることに必死になっているこの時代になぜあえて見えないままでいるの?」確かに、他人からの評価、SNSの数字が何でも影響を与えるご時世からね。「フォロワー数が人間の価値。僕はフォロワー数が減るのが怖くて怖くて生きてる。」SNSに自分の何かを投稿しない人は「社内光的」だと決めつける人も大勢います。

ですが、実態はそんな浅墓で単純なものではありません。実はこの沈黙にはいくつか全く異なる理由が存在します。せず騒がず、ただいた。そして不思議なことに、そういう人たちはどこか少し落ち着いていることが多い。ある人にとって、それは社会の騒がしさから距離を取り、自分の人生を守るための主体的な選択だったりします。しかし、別の人にとっては評価や比較、誤解への不安から防御反応の結果でもあります。

この動画では、SNSに投稿しない沈黙する人々について、様々な視点から見ていきます。彼らは、そしてあなたは、人類の本性、証欲求、そして性に取り憑かれた現代社会に対する静かなる反逆者なのかもしれません。

ある人たちは、沈黙は存在しないも同じと捉えます。SNSで何も発信していない人は、まるでそこにいないかのように扱われる。性がそのまま存在感のように見える世界だからですね。しかし一方で、別の人たちは全く違う見方をしています。彼らにとって、沈黙は存在の欠除ではなくコントロールの証なのです。世に知られないものを自分で選び取る力。

SNSでは見せることが報われ、騒がしさが賞賛されます。自分の生活を公開し、経験を共有し、感情を投稿し、耐えず自分という存在を提示し続ける。この行動は単なるコミュニケーションではなく、アイデンティの構築でもあります。テキスト、写真、ステータスの更新を通じて、私たちはデジタル空間に向かってこう言っているんです。「これが私です。あなたは私が存在することを許し認めてくれますか?」

なぜ人間はここまで他者の認識を気にするのでしょうか?この心理的背景や農科学的な仕組みについては、過去の動画で詳しく取り上げていますので、興味があればご覧いただきたいのですが、簡単に言うと、それはホモサピエンスが社会性の獣だからです。集団の中で評価され、受け入れられることは、長い間生存と結びついてきました。よく知らない人は不気味で、イフの対象となりやすく、自分のことをなるべく多くの人に知っておいてもらわないと、次に消されるのは自分かもしれない。自分が何者なのかを周囲に示そうとする個体、自分の存在を貸しか消化し、理解されようとすることで脳内報酬が出やすい個体が生き延びやすくなりました。

これは狩猟生活から定が始まり、村や町という狭い範囲で暮らし始めた結果です。そして現代のSNSは、この本能を非常に強く刺激します。「いいね」、共有通知。こうした仕組みは脳の報酬系を刺激し、人に繰り返し発信させるよう設計されています。その結果、私たちは時に薬気になって事故を開示し、狂ったように脳内報酬を無さぼっているんです。

しかし、ここで1つの疑問が生まれます。もしSNSが事故を貸化し、アイデンティティを構築する場所なのだとしたら、投稿しない人たちはどうしているんでしょうか?彼らは自分を提示しません。自分の生活をデジタル空間に残さない。それでも彼らは確かに存在し、自分の人生を生きています。アイデンティティがない人ではなく、別の方法でアイデンティを保っている人たちです。では、その沈黙は何を意味しているのか見ていきましょう。

SNSで静かな人たちの沈黙が全て同じ理由で生まれているわけではありません。その中には意識的に沈黙を選んでいる人たちもいます。彼らは単に消極的なのではありません。SNSの世界に振り回されることなく、自分の人生の重心を自分の内側に置いている人たちです。ここではまず、そうした前向きな沈黙から見ていきましょう。

投稿が評価される。いい根が増える。共感される。SNSの世界ではこうした反応は社会的な証言として機能し、現代社会では多くの人がその反応を通じて自分の価値を確認してしまっています。ですが、オンラインで静かな人たちはこの仕組みにそれほど依存していない場合があります。評価の基準が外側ではなく内側にある人。心理学ではこれをローカスオブコントロール(統制の所材)と呼びます。人が自分の人生の結果をどこに既属させるのかという概念です。外的適統制の強い人は自分の価値や幸福が他人の評価や環境によって決まると感じやすく、内的統制が強い人は自分の判断や価値観を重視します。SNSで静かな人たちはこの内的統制が強い傾向があります。彼らは自分の価値を他人の反応によって決めるようなことはしません。反客がいなくても自分の価値は変わらない。SNSの数字が動かなくても人生の意味は減らないのです。

もう1つの特徴は思考スタイルです。オンラインで静かな人たちは何も考えていないわけではありません。むしろ逆に、彼らは少し落ち着いています。遮らずに見守り、反応する前に考える。すぐに言葉にするのではなく、まず自分の中で整理する。SNSでは出来事や感じたことはすぐ投稿され、考えはすぐに言語化されますが、静かな人たちはその流れに急いで乗ろうとはしません。頻繁に投稿を控える人々は、自己抑制や内性、感情的自立といった特性で高得点を示す傾向があるという研究もあります。こうした傾向を考えると、自分が何者かを証明しようとしているというより、理解しようとしているという表現の方がしっくりくるかもしれません。自分が何を感じているのか、自分が何を大切にしているのか、それを外の反応ではなく自分の内側で確かめようとしているのです。

静かな人たちの沈黙にはまだ別の理由があります。これは経験の所有感です。心理学的にはサイコロジカルオーナーシップ(心理的所有感)という概念があります。ある考えや記憶、経験について、「これは自分のものだ」と感じる感覚のことです。私たちは何か特別な出来事を経験すると、それを共有したくなりますが、その瞬間に1つの変化が起こります。投稿された経験はもはや完全に個人のものではなくなるからです。共有され、評価され、解釈される時には、独読され、長されることさえある。ある人にとっては感動的な思い出でも、別の誰かにとってはただのコンテンツになります。

もちろん、それ自体が悪いわけではありません。SNSは元々経験を共有するための場所だからです。ですが、静かな人たちはこの変化をよく理解していることがあり ます。何かを投稿した瞬間、その経験は共同の空間に置かれます。完全に自分だけのも のだった体験が、少しだけ公共のものになる。だから彼らは全てを共有しようとはしません。いくつかの瞬間は自分の内側に とめておくことを選びます。誰にも触れられず、評価されず、解釈されないまま残る記憶。そうした経験はより純粋な形で自分の中に残ります。この意味で、投稿しないという選択は人生そのものへの所有感を守る行為でもあるのです。

SNSの世界では、多くの出来事が見せるものになっていますよね。に行く。料理を作る。友達と会う。何かを達成する。それらは経験であると同時に、投稿されるコンテンツにもなっている。そうしていると気づかないうちに、私たちは物事を2つの視点で考えるようになります。1つは体験すること。もう1つは共有すること。そしてSNSの環境では、校舎が強くなりやすい。「どんな写真が撮れるか?」「どう書けば共感されるだろう?」「どう見せれば印象に残るか?」こうして出来事は、少しずつパフォーマンスの側面を持ち始めます。

しかし、静かな人たちの中にはこの流れに違和感を覚える人もいます。彼らはSNSを憎んでいるわけではありません。反 テクノロジーでもないし、反社会的でもありません。ただ自分の人生をハイライトや固定ポストに還元することを拒んでいるんです。そうした投稿をやめると、ある変化が起こります。自分の価値をデジタルな賞賛から切り離し始める。他人に見せるためではなく、自分のためにその瞬間を体験し始める。全てが舞隊装置となってしまったような世界の中で、彼らはただリアルを求めているのかもしれません。写真なんか撮らずに料理する。タグ付けをせずに旅をする。説明を加えずに感じる。観客を必要としない体験です。誰かに見せるための経験ではなく、自分自身のための経験。心理学ではこうした感覚をアイデンティティ セキュリティと説明することがあります。誰にも見られていない時でも、自分が誰であるのかを知っている状態です。極端な話、己の価値の確認に観客なんていらない。時としてそれは傲慢と捉えられるかもしれませんが、平穏と言い換えることもできます。SNSに投稿しない人たちは、そうした瞬間を自分の人生の中心に置いているのかも しれません。

ここまで色々お話をしてきましたが、オンラインで静かな全ての人が前向きな理由で沈黙しているわけではありません。沈黙の背景には様々な理由があります。その1つが恐れです。評価されることへの恐れ、拒絶されることへの恐れ、誤解されることへの恐れ。SNSはこうした不安を増幅させる環境でもあります。心理学的には自己提示プレッシャー(セルフ プレゼンテーショナルプレッシャー)と呼びます。他人にどう見られるかを常に気にし、好ましい印象を与え続けなければならないという心理的な圧力です。それが実際に見られていない時でさえ消えない感覚です。自分の言葉が誤解されるかもしれない。バカだと思われてしまうかもしれない。無視されるかもしれないと心配する。こうした緊張は多くの人にとって消耗をもたらします。

SNSは繋がりのための場所として始まりました。しかし同時に、人を孤立させ疲れさせる場所にもなりました。他人のハイライトを見続けることによる耗もあります。耐えず流れるキラキラとしたコンテンツに対して、「自分の人生はあれほどまでに花々しくない」。無意識化で比較し始め、分別があったとしても自己価値を問い始めてしまう。自分でも気がつかない疲労が少しずつ積み重なっていきます。そしてある日、何人かの人は気づきます。「自分は繋がりたくないのではない。ただ歌詞性の代償が大きすぎるのだと。」こうして彼らはゆっくりとフィードから姿を消します。強いストレス源から距離を取る行動を回避型コーではありません。状況によっては、人が自分の心を守るために取る自然な適用行動でもあります。沈黙は時に逃亡ではなく、自己防衛なのです。

さて、ここまで見てきたように、SNSで沈黙している人たちの理由は1つではありません。ある人にとってそれは主体的な選択です。自分の人生をパフォーマンスに変えないための選択。また別の人にとっては防御でもあります。評価や比較の消耗を守るための距離。理由は違っていても、そこには1つの共通点があります。それは、沈黙は欠除ではないということ。

フォロワー、いいね。数、確かに数字は注目を図る指標にはなります。一方、当たり前をあえて言語化しますが、それは人生そのものの価値ではありません。実際に人生で本当に重要な出来事の多くは、誰にも見られない場所で起こります。成長、決断、失敗、静かなる勝利。人の認識がどれほど簡単に操作できるかを知ってしまった人の中には、投稿できないものこそが価値あるものであると気がついている人もいるかもしれません。沈黙深み、不完全、真実。投稿しないものこそ輝きを放ち始めるのです。タイムラインには現れません。キャプションもつきません。いいねもつきません。

オンラインで静かな人たちは、もしかするとこういったことをよく理解しているのかもしれません。何を見せるかだけでなく、何を見せないでおくか。その選択もまた1つの知的なのです。繰り返しになりますが、SNSに投稿しない人はこの世界から消えているわけではありません。むしろ彼らは、観客を必要としない場所で自分の人生を生きています。そして時に、人生を最も深く感じているのはそういう静かな人たちなのかもしれませんね。

ちょっと今回は花粉症でした。聞きづらかったら申し訳ありません。最後までどうもありがとう。

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