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え、試せ世代大学の質問コーナーです。毎日楽しく動画を拝見しています39歳、会社員です。過去へのこれ、何て言うのか、な?合衆だったかな?すいません。漢字がわかんないについてご意見をお聞きしたいです。
私は大学時代に部活をしていました。え、他にやりたいことがあり、3年生の夏で辞しました。先日部活の先輩が現役時代に書いていたブログをたまたま発見し、20年ぶりに懐かしく読みふけりいました。その中で先輩たちが全国大会の団体戦で優勝した記事があり、家にあった試合のビデオを見返すと会場の熱気、接戦の末の優勝、部員の嬉し涙が昨日の出来事のように思い出されました。
さらに私がやめた後に同期が活躍してる試合をYouTubeで発見しました。部活をやめたのは自分の選択でやりたいことができたメリットもありますが、やめない選択肢もあったのではないかという激しい、またこの字が出てきた。これ、何て言うんだ?これ、公衆?うん。なんだっけ?教習だ。すいません。教習。まだまだだな。勉強しないと。教習と同時に胸を締めつけられる切ない気持ちが押し寄せてきました。
たさんは動画で過去と他人は変わらないとおっしゃっていました。過去は変化せず、引かされるからこそキラキラしたまま心の中に閉まっておけますが、同時に二度と追体験できないからこその切なさもあるのではないかと思います。取り止めのない内容で恐縮ですが、過去や教習についてた生さんの思うところがあればお聞きしたいです。
大人はみんな抱えてるあれですよね。これはね。うん。できなかったこととかですね。
[音楽]
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諦めきれないこととか、そういうものに対して人はみんな傷ついていくんだろうと思うんですけど、ま、私はこういうものがない人っていないんじゃないかと思うんですよね。ま、いるかもしれないですけど、少なくとも何かに一生懸命になったことがある人っていうのは必ずね、あれがこうなってたらどうだったんだろうとか思うと思うんですね。そして人はいつかやめますからね。そこにスポーツは必ず引退があるので、もし引退していなければ、え、こんなことがあった可能性はあるんじゃないかとかですね。で、思うわけですね。
で、さらには、え、スポーツ、ま、スポーツ以外もそうかもしれないですけど、自分の取らなかった選択を取った人がその道を行くことで、その姿も見るわけですね。あ、この道を一生懸命やっていった結果、諦めなかった結果、その世界で成功した人がいたりすると激しい心の痛みとですね、何とも言えない切なさが込み上げますよね。ぎゅっと。もしかしたらあれは私だったかもしれないと、あの日そちらを選んでいたら私だったかもしれないと思うわけですよね。
でも目の前にある人生も、あの別にえ、うまくいってないわけじゃないと。でもあの時のような激しい喜びや悔しい思いとか激しい感情のよりはもう経験できないんじゃないか。残りの人生はそうやって生きていくのか。ま、みたいないろんなことをですね、ちょっと後半私のあの気分で話しちゃいましたけど、そういう風に思うと思うんですよね。で、ま、答えとしてはみんな、あの多くの人はあるんじゃないでしょうか。で、それに対しての対処法ってのは、ま、別に具体的なものがあるわけじゃないと思うんですよね。っていう答えになると思うんですけど。
で、私はでもどうやって考えてるかなって言うとうん。ま、過去をどんな風にね、整理するかってのは本当大切だなと思う一方で。うん。本当に人生の最後の瞬間まで人間ってのはどんな気分になるか分からないと思うんですよね。で、もうちょっと言うと現状はね、全く変わらなくても、例えば日々は淡々と生きていっても、ある日そういうことだったのかとかですね。ある日、ああ、なんていうか生きている私が今生きていることがありがたいみたいな気分になる瞬間があるんじゃないかと思うんですよ。理屈じゃなくて、その時の他感っていうか幸福感っていうか、ま、幸福とはまたちょっと違って不打ち感というか、自分の人生に意味を感じる感じっていうか、または、え、あらゆることから切り離されていない感じっていうんですかね。そういう瞬間が来たら、それはやっぱり人生に全てオールオッケーになるんじゃないかって気がするんですよね。
ま、突き詰めると解釈だと思うんですね。人生。解釈っていうかせ、もうちょっと正確に言うと、どのようにその対それ体験し人生をどのようにその体験をまとめるかということなんじゃないかと思うんですよね。で、体験の方は選択も影響しますけど、運がほとんどですよね。選んだ結果うまくいくかどうかとかどうなるかも選べない。そもそも私たちどこに生まれてくるか選んでないですから。それでだいぶ決まりますよね。日本語喋るとこに私生まれたんで、今皆さんとこうやって日本語でやり取りしてますけど、で、こういう文化を受けてると日本語ので、そういう風に、ま、いろんあらゆることが実はあんまり選んでなくて起きてると、ま、その上では選ぶんですけどね、我々。でも本当の意味で人生を選択してできるかっていうと全部全然そんなことないわけですよ。
で、運に翻弄されると思ったような人生を生きていられないとか色々思うんですけど、その思ったような人生をどのように思うかっていうこと自体がDNAに影響され、生まれたとこに影響され、そしてそれらは自分で選んでないと思うと一体何が本当に私の思ったような人生だったのかっていうのもまたよくわかんないですよね。だからそうすると今度は別の考え方が出てきて人生ってのは全て選べないんだと。だから解釈にかかってるんだという。またはその解釈すらただの方便じゃないかと。だから人生ってのは何の意味もないんだっていうシニカルな考え方も出てきたりすると思うんですよね。
でも私は何て言えばいいか分からないですけど人生は選べないけれどもでも何て言うんでしょうね。視点だけは変えられるんじゃないかと思うんですね。つまりうん。こう前に住んでるわけですよね。で、いろんな出来事起きていくとて時々こうやって振り返ってって思うわけですよね。とかなんか泣いたりするかもしれないし、夕ぐれ見けたり立ち止まる時もあるかもしれないけど、でもその時にあ、パッとを見てよしまあじゃあこれからこっちは変えられないからこっち側で自分のできることやっているかよく周りを見てみるとこれもあるしあれもあるしまそもそも自分が生きてるっていうまこれを思いっきり色々使いながら生きてみるかなっていうこのくっと前を見る感じここに選択の余地があると。
思うんですよね。なんかなんかどっちにするかとか正直それはどうでもいいっていうか運のような気がするんですけど、このくっと前に見ていくっていうこの瞬間に私は選択の余地があって、まこれがあ人間が持っている一番大きな自由意思の力なんじゃないかと思うんですね。視点を落ちた視点をふっと前に向けるこの力。そして学んだことによって自分自身を変えていくっていうこれがまあ全てなんじゃないかと思うんですね。
なので、え、もう追いた意見はできなくて、そこに教習覚え、おかげさまで覚えました。教習ですね。教習の思いはあるかもしれないけど、一方でこの人生ではなかったわけですから、そっち恨んでいると、ま、そんな感じですよね。人生ってずっと枝からできてあり得たかもしれないもう一つの人生を考えるのは大人の癖だと思うんですけど、でもそんな風に思っていくんじゃないかなと思うんですね。
そしてもう一つ最近思うんですけど、案外人生って死ぬ瞬間まで青春が作れるんじゃないかって気もするんですよ。そういうもんじゃないって思いさえしなければなんかに夢中になったり、え、色々できると思うんですよね。だからそれをあの色々やったら楽しいんじゃないかななんていうことを思い、私自身は思うようにしてますね。はい。あり得たかもしれないもう一つの人生ってのは大人のテーマですけど、ま、これもまたあの面白がるのはいいんですが、ま、日々前を向きながら生きていくっていうことなのかなという気がしています。何の回答にもなっていませんけども、ま、そんなちょっとこれいろんな年齢の方見られてるんで、これ10代の人は全く何言ってるかよくわかんないかもしれないですけど、これがね、我々ぐらいの年齢になると、なかなかいい、いい味のある話なんですよね。という、え、ご回答でございました。Ja.