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スポーツマンシップってなんですか?

為末大学 Tamesue Academy12:23

Transcription

た大学の質問コーナーです。え、質問ですね。これがまた本当興味深い。今日は質問ですけども、え、ま、前段は、えっと、別の質問への感謝の言葉で飛ばしますね。今回はスポーツマンシップについて質問です。

スポーツマンシップの定義は「精々堂々と公明に勝負を争うスポーツマンにふさわしい態度」とのことです。公人よりこれには惹かれておりますね。ただ実際には競技上だけでなく、協議外プライベートの態度にもスポーツマンシップが求められ、最近ではSNSの影響からかその傾向が強まっている気がします。しかし、競技に能力があっても、政治のように人間性まで万能は難しく、実際にヨーロッパの一流サッカー選手でもプライベートでの差別的な言動が幾度か取り上げられていました。一体何がスポーツマンシップの高さを分けるのでしょうか。私は競技の特徴、個人戦や団体戦、身体戦や頭脳戦や文化歴史や人気度など、要因は様々だと思いますが、一方で結局は個人差な気もしています。

また近年拡大しているEスポーツでは、将棋と同じく頭脳戦でありながらも歴史が浅く発展途上なこと、バーチャル空間で不正がしやすいこと、練習時は匿名体制のため他社の目線がないことなどから、スポーツマンシップが未熟であるように感じています。長くなってしまいましたが、そもそもスポーツマンシップとは何か、特に何が影響しているのか、そして専門会でしたら恐縮ですが、eスポーツに関しても何か考えがあればお聞きしたいです。

はい、もう素晴らしいですね観点で、え、ま、色々回答したいんですけども、これスポーツマンシップって言ってるものはですね、私は本当にこれを考えてる人は日本にはそんなにいないんじゃないかと思っております。ま、ちょっとすいません、そこまで言っていいかわかんないですけど、いらっしゃるんだけど、スポーツマンの中にスポーツマンシップとは何かって定義づけしてる人はほとんどいないと思います。で、多分書かれながらお気づきだと思うんですけど、「精々堂々と公明に勝負を争うスポーツマンにふさわしい態度」。これもすでによく分かりませんよね。公明、精々堂々と公明に勝負を争うっていうのは、これ倫理的な態度とかで説明可能ですよね。で、「スポーツマンにふさわしい態度」は要するにスポーツマンシップの本質だと思うんですけど、「スポーツマンとは何か」って定義出すと、おそらく「スポーツマンシップを持つスポーツをやる人」とか出てくるわけですね。これどこにも説明が成り立たないって、こう循環構造の典型的なパターンじゃないかと思います。

で、私は実際にはスポーツマンシップなんてないと思ってるんですね。スポーツの世界に。え、逆に言うと、そんなものでも定義しない限りは、あんな暴力的な空間がうまくコントロールできなかったというのが私の理解ですね。ま、初期の頃のですね、近代オリンピックもそうですし、ま、ラグビー校におけるラグビーもそうなんですけど、死者がバンバン出てるわけですね。めちゃくちゃ暴力的で、え、ほとんど戦争に近いんだけども、でも戦争やるよりももうちょっと擬似空間で安全ですねっていうところに、ま、特にイギリスに渡ったとのスポーツはですね、ま、そこに結構分類されていってる。で、そこで「いやいやいや、そこまでやっちゃまずいでしょ」って自己抑制しないとねって言って、なんとかその暴力的な人たちをこう抑制していって出来上がったのがスポーツマンシップじゃないかと思ってます。

それがいつからかスポーツと教育というのは結びついて、スポーツは人を育てるものだ、人のえ、ま、成長させるものだ、さらにはスポーツは人を倫理的にさせるものだっていう風にだんだんだんだんもの乗っかってきて、で最後スポーツマンシップってなんか、まるでスポーツをやるといい人になるんじゃないかっていう風にしたわけですね。スポーツに触れた方でスポーツをやればいい人になるなんて信じてる人はほとんどいませんよね。なぜなら相手を倒せば自分が勝てる世界ですから、譲っちゃおしまいなわけですね。で、ま、いい人の定義は何かとか色々ありますけども、少なくとも倫理的にスポーツをやればなるっていうのはまたちょっと全然違う話だっていうのは私は普段思ってることです。ただスポーツを通じて生きる上で大事なことや倫理感を教えていくことはできるので、スポーツを通じて、ま、スポーツマンシップを教えたいってよりも、スポーツを通じて人生で大事なことを教えたいという指導者がスポーツを使うと、これは的MENに効果があって、やっぱり素晴らしく全人格的な、え、両、なんて言うんでしょうね、良い人が出来上がるっていう風に私は思っています。なのでスポーツ自体には全もないんだけど、悪く使えば悪く使えるし、良く使えば教育的にも非常に良いものができると思ってます。これもう本当教育者の手に委ねられてる話かなという風に思っています。

で、その上で最近のSNSでスポーツマンシップが加速してる傾向は、これは私はやっぱりアスリートにとって苦しすぎると思うんですね。まただこれ煽ったのスポーツ会って感じもするんですよ。「スポーツすればいい人になれるからみんなスポーツやりましょう」って言いすぎたんだかって気がしてて、だってハードル飛んでるだけでいい人になるわけないじゃないですか。それやっぱ指導者が「お前は才能があってそうだけれども、それは別にお前の努力じゃなくてもって生まれたもんなんだ。そのこと自覚しろ」とかって言うから、言われてそうだって信じてその指導者との信頼関係ができるから人間が寝られていくわけで、ほっといたらまそんなならないですね。

ま、ただすごい私が良かったのは、スポーツで1番私みたいな人間に良かった点は、思いっきり目の前で、え、人前で敗北するっていうことですね。で、ごまかしきれないわけですよ。スポーツって最後の最後に全部出ちゃうんで、特に個人競技は全部さらされると。つまり上司に気に入られたからとか、あの、なんかこううまくマーケティングにやったからとか、そういうことは一切ない世界であのむき出しの体で走って勝つか負けるかやってくださいっていう世界なんで、もう一切説明とかもいらないわけですよ。一言も喋んなくても勝てばそれでいいわけであのいっぱいいますから、ベラベラ理屈は喋れるんだけど走ると遅いっていう人もいるわけです。ま、これはこれでその役割があるんだけど、理屈を追求するっていう。だけどものすごい残酷な世界にさらされて、で私の良かった点は、ま、ちょっとおしりで若干小さい時は軽薄なとこがあったと思うんですけど、言ってることが全部意味無意味になるって、あのグランドを経験して本当に意味があることだけをやらないと早くならないんだってことを突きつけられたことが私の人生に非常に大きなインパクトがあったと思います。今もだから世の中を見ながら、このこれは偽物か本物か、ま、ちょっと残酷に言うとこの人は本物だろうかっていうのをものすごく厳しく見る傾向にあるんですけど、それやっぱり競技時代になんだかんだ言っても「10秒走れないじゃ切れないじゃん」っていうことをバっと突きつけられてきた経験があるので、やっぱ本当に意味があること以外のごまかしを排除したいっていうのが自分の思想に非常に強くあります。これはスポーツマンシップかわかんないけど、なんか真実の追求みたいなところに非常に興味があるのはこう陸上競技の経験から来たのかなと思い ます。

でおっしゃるように、このスポーツマンシップっていうのは、ま、実際には競技の中でこう提供されて、自分自身を抑制しなきゃ活躍できないので、それを強られてくると。で、そこがなんか人間を練られていくことにプラスだっていうのは、ま、ある気がするん ですね。だからこれがまず1つスポーツマンシップの非常に大事なポイントかなと思うんですけど、もう一方で、あの、なんしょうね、ずるができちゃうような競技、ごまかせ。陸上競技ってスポーツマンシップも何もですね、ずるがほとんどできない競技で、ま、せいぜいドーピングぐらいなんですよね。で、ドーピングもま、本当に効くのどうなのって感じも正直、ま、昔のようなんですね、強烈なのは別でもう今厳しくチェックしてますから、ま、どうなんだろうって気がするんですけど、ま、ともかくそういった競技におけるスポマシッはそんなに感覚がないんですけど、やっぱりサッカーとか他競技でジャッジがどっちを振るかで勝負が決まっちゃうようなものは非常に問われますよねスポーツマンシップがああいうものはなんかまさに文化的なものとか人間性が出てくる。と。で、案外と、え、私はスポーツマンシップって呼んでるものは国によって定義が違っていて、日本人のスポーツマンシップはとっても日本的で、ブラジル人のスポーツマンシップもとってもブラジル的で全然違うんだと。つまり気のスポーツマンシップがあるなんてのは幻想で、せいぜいその国の大事な倫理感とか文化的背景をスポーツに投影したものは、我々がそれにスポーツマンシップってラベルを張ってる程度なんで、ま、不変のものはないんじゃないかなってのが正直に思うところです。ただお互いをリスペクトし合うとか、ま、苦しいことは苦しんでね、みんなここまで来るの苦しかったねって思い合うような意味でのスポーツマンシップはあるんじゃないかなと思ってます。

すいません、あの明確に答えたんですけど、最後にえ、Eスポーツのとこですね。私はあの、これスポーツマンシップっていうよりもですね、テレビ、昔のテレビの感覚で言うと分かりやすいんですけど、深夜番組からゴールデンタイムに上がるっていうことがあらゆる世の中で起きてると思うんですね。で、深夜番組で許された基準はゴールデンタイムには許されないわけですね。なぜならば誰がそれを見るのかによって許される範囲ってのは大きく変わるわけですね。で、ほとんどの場合ですね、物事の発展っていうのは深夜番組的なところから、特にアングラー的なやつはですね、始まっていくと。で、あるコミュニティにおいて良しとされていれば、他のコミュニティから見てどうかってのは目に触れてないですから、それで上成されていくわけですね、最初の文化が。で、だんだんだんだん深夜番組入りすると、それ面白いというので周りも集まってくると。で、いよいよゴールデンタイムに入ってきて、1番のポイントは子供やお父さんお母さんが見たりっていうとこです。そうなった瞬間に、そこから受け入れられないものはゴールデンタイムにはいられないわけですね。つまりパブリックにはなれないと。

で、多分Eスポーツ私詳しくないですけど、Eスポーツは今自分たちで想像もしていなかったゴールデンタイムに出てきてしまってるっていうことだと思うです。ま、そうしようとした意向はあったと思うんですけど、でも出てくると。でもゴールデンタイムがどういう場所なのか、昼間のお父さんお母さんが見てる場所、お子さんが見てる場所、どういう場所なのかってのは想像はしてなかったような気がするんです。ここでは言っていけない言葉たくさんあるし、そうしてはならない振る舞いってのはたくさんある世界なんです。で、こので私はそのことがいいのかどうかいつも疑問に思います。あのオリンピック入りにしたいと言ってしてしまったスケートボードとスノーボードは本当はオリンピック、オリンピックって学校の先生みたい文化の世界なんでね、昼間の世界なんで、オリンピック入りして良かったんだろうかと。ちょっとズボン下げただけであれこれ言われたくないでしょ皆さんて。ま、海外の選手はおそらくマリファナとか吸う人いっぱいいるスポーツなわけですよ。ま、それでいいんじゃないと。そういうストリートカルチャーだから。それオリンピックに来ちゃうと、オリンピックの学校の基準ってのがあって、これに乗っからないといけなくなるんだよってのは私は思うんですね。同じようにEスポーツもオリンピック入りをあのしたいっていう声で時々聞くんですけど、オリンピックに来るってことはゴールデンタイムに来るっていうことで、こっちはこっちの窮屈さあるんだけど、それで本当にいいと思う皆さんのカルチャって、それで守られるというのはちょっと思い ます。ただし大きいですね、やっぱ昼間はね、ゴールデンタイムは視聴者がいっぱいいると。ま、そういう意味で、ま、Eスポーツの世界の方々、Eスポーツはなんあの、ま、私もゲームするんでよくわかるんですけど、ま、非常に今大きくなってますどんどんどんどん。そしてパブリックの世界に来ると、ま、ここではま、スポーツマンシップってそれ呼んでいいのかわからないけど、少なくとも非常に多くの人を見ながら一定の不度を超えないような振る舞いが求められる世界がやってきて、それにま、馴染まなきゃいけないしま、おそらく今後Eスポーツこれだけ大きいって考えたら馴染んでいくんだろうなっていう風に考えていますかね。すいません、取り止めもない話でしたけど、非常に面白い質問だったんでお答えしました。