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我々はすぐに始まりと終わりを考えてね、直線的に人生を見てしまう。だからその直線的な人生感の中には先に未来があって、後ろに過去があると思う。でもね、そんなものはないという風に考えた。
40歳の人だったら、もうそろそろ折り返し地点に到着したのかなと思う人がいるかもしれないです。折り返し地点なんかとうに過ぎてるかもしれない。我々はあまりに生産性に価値を置きすぎてしまい、何かを成し遂げることでしか自分の価値を認められなくなってしまってる。
ドラが語っていないことを嫌われ雪の中で書いた箇所は1箇所もないですね。ただ十分アドラが語りきれていないことはいくつかあります。
[音楽]
ザハリヒという言葉を使って今ここを生きるという生き方について主張したかったはずなんですけど、十分論じきれてないなという印象があります。で、その辺りの話を少ししてみようと思います。ま、簡単に言うとね、血に足がついたというくらいの意味なですね。あるいは現実的っていう風にしてもいいと思いますが、我々は即に生きられていないというんですね。過去のことを持って公開しね、未来のことを持って不安になる。でもね、あのお不安になっても何も解決しないですしね。過去のことを悔んでも過去に戻ることはできない。だったら今ここ生きるしかない。で、今ここを一生懸命生きれば次の一歩を踏み出すことができる。
で、3点があります。1つは、え、人からどう思われるかを気にしてしまっているということです。で、人からどう思われるかを気にしてしまってる人は人に合わせて生きてしまう。実際に行きたい人生を生きられずに人に良く思われるためにだけ生きるようになる。で、日常生活の中でもそういうことありますよね。あの、上司にこんなことを言ったらどう思われるだろうか。あるいは他の同僚たちはどう思うだろうかという風に考えた時に、例え職場に不満があっても言えないんですよね。で、そういう人たちはね、あの、人からどう見られるかということばかり気にして本当の自分の人生を生ききれていないという意味で即自的に生きていないという風に宿ら。
2番目は、ま、今のことに派生する考え方ですけども、立派な自分あるいは他者を見てしまうね。特に自分自身について、あの、かくあるべき自分を見てしまう。でも現実に我々が生きられるのはこのありのまの自分でしかない。なのにこうあるべきだというね、理想を高く掲げすぎて地に足がついた生き方ができない。ありのまの自分しかいないのだからね、この私から始めていくありのまの自分を受け入れることが大事です。も、もちろんありのまの自分を受け入れると言い方をすると、多くの人はそれではダメではないかという言い方をされること多いですけどもありのまの自分から始めるしかないので、例えば2階の部屋に行く時にはしごもかけないでジャンプして登ろうとしてもほとんど不可能ですね。一方、1歩ね、あの、はしごの段を上がっていくというような着実な努力をすることが必要ですが、まず1番下のね、なんて言いますかね、字を見ていないので、あの、到底できもしないことをやろうとすることで、現実から遊離した人生を送ることになる。で、あ、は、そういう生き方をしてはいけないという風に言ってます。
で、第3点が今はまだ本当の人生を生きられていないと思うこと。今はいわば仮の人生だと思ってる人が多い。何かが実現すれば本当の人生が始まると考えるような生き方はざり日に生きられてないです。でも何かが実現するかどうかは、この今の時点で分からないですよね。で、今この時点で成功するかどうかもしても分からないし、先のことばかり考えてきてしまってる人がもに多いです。そうですとね、成功を目指して、ま、だった子供の頃からね、受験勉強に励みますよね。で、小学生の時は中学生になった時のことを考えるね。で、中学校に入学したら今度は高校受験のことを考え、高校に入ったら大学のこと考そうやってね、人生をね、いわばこう先送りして生きてしまってることが多い。でもアドラはそのような生き方はざり日なね、即生生き方ではないという風に考えてます。即生方は今ここを生きるね。で、そういう人生のあり方を、え、彼は提唱してます。
大事なことは誰じゃなくって、私がね、あの、商人欲求を今もこれからも求め続け、それは仕方ないことなんだ。人間としての本性だとまで思ってしまうところにこそ問題があるという風に思う。人間の価値っていうのはそのような評価には全く依存しないんだということをはっきりと知らないといけない。ドイツの詩人であるリルケが死を書く時にね、いつも何を考えてたかと言うと、私は書かざるを得ないかどうかということだけを考えようということ言ってる。で、僕たちはね、書かざるを得ないから死を抱いだりしないんですよ。もちろん死も書かないかもしれ。自分の内発的な動機で死を書かないわけにいかないと思って塩を書いたりしないでしょう。必ず評価を求め。この死を抱いたら売れるだろうか。若い詩人がね、その自分の死を評価して欲しいと手紙をよした時に、リルけはこんなことはもう今後一切やめなさいと夜中に自分は死を欠かざるを得ないのか書かずには得られないのかということを問いなさい。で、その問いにはいという答えが出せるのなら死を書きなさいと言ってる。で、そういうような仕事をしていないといけないね。生き方もそうだと思うね。だから他者から認められるかとかまして売れるかどうかとか成功するかどうかというようなこととは関係なしに本当に自分がしたいことをしているのかを考えないといけないし、でそれがま、ま自分として生きるということです。そこまでね厳しくあの自分を見直さないといけない。
我々はあまりに生産性に価値を置きすぎてしまい、何かを成し遂げることでしか自分の価値を認められなくなってしまってる。ちょうど小さい子供がそうで。何も成し遂げていなくっても、子供の存在そのものが喜びに感じられるでしょう。で、それを大人、我々にも当てはめていけないような、我々も何も仕事をしてなくても、何も達成できていなくても、こうやって生きてることがそのまま価値があるという風に思えたら、そんなしもない考えではないかと思っています。
ドラは戦争神経症と呼ばれる兵士の治療にあたっていました。第一世界大戦地に、え、軍として従軍した時に、だからトラウマがないと思ってたはずはね、あることをしていたんです。現実事論していたわけですからね。にもかわからわらずと言いたいんですけども、心を病まないわけにはいかなくても人がね、過去の育歴ね、これまでどんな生き方をしてきたか、育てられ方をしてきたかということが今のあるいはこれからの人生を完全に決めるわけではないということをアドラはあえて主張したという風に考えた方がいいね。ですから、トラウマについてはそんなものがないってね、僕たちが言ってるという風に理解した人はモンハされるでしょうし、で実際心を破い自象がないわけではないんですけど、それでもなお過去に囚われていたら前に進むことはできないからその辺りのことをね、誰かがはっきり言わないとね、生き方を変えることはできない。これまでの人生のあり方を、例えばカウンセラーは一生懸命聞き。で、それに対してね、大変でしたねってね、そんな風な人生を送ってこられたのだったら今さかし行きづらいでしょうねと言ったら、ま、確かによくこのカウンセラーは自分の苦しみを理解してくれたと。で、時には涙を流されるかもしれないですけど、でもそこで終わってしまったらその人の人生って変わらないです。ま、これまですごく大変だったかもしれないです。でも目をこからのことにね、あの向けていくことが大事でね、これまでの人生のあり方がどういうものであったか分かったけどもさあ、これからどう生きていくか一緒に考えましょうというようなことを誰かが言わないといけない。
で、その時にね、トラウマはないというのは多分言いすぎかもしれないですけど、トラウマを乗り越えて生きる勇気をし、そういうことを伝えたいのできつい言い方ですけど、トラウマはないという言い方を嫌わる中ではしています。
音楽が始まったらダンスが始まります。でも音楽が終わったらダンスはそこで終わります。音楽が終わった時に振り返ったら随分遠くまで来たなというのが人生のあり方だと思うし、踊ってるその時々が楽しい。でも踊ってる時にね、踊る前のことを考えてないでしょ。このダンスが終わったから一体何をするかということも考えてないでしょ。そういうのは切な主義で生きるということではなくってね。人生をそもそもこう現在未来という風に直線的に考えない生き方が大事だと言ってるんです。で、そういう考え方は実はね、アリストテレスギリシャン哲学者のアリストテレスがついてることで我々はすぐに始まりと終わりを考えてね、直線的に人生を見てしまう。だからその直線的な人生感の中には過去もあり未来もあるんです。先に未来があって後ろに過去があると思う。でもね、そんなものはないという風に考えた。難しいです。でもそういう意識的な努力をしていかないとなんか我々は自分の実を考えた時に、なんか今80歳まで生きられるとしたら、40歳の人だったらもうそろそろ折り返し地点に到着したのかなと思う人がいるかもしれないですけど、折り返し地点なんかとうに過ぎてるかもしれない。だって8時も切られないなんて保障法全然誰にもないわけでしょ。僕自身も50歳の時に進行高速で倒れた経験があるので、人生がこの先ずっと続くということは全く思ったことない。だったら今ここ行けるしかないじゃない。でもその時にぼんやりて生きてるわけじゃなくって、自分がこんな風に生きていることが何らかの仕方で他者に貢献しているという感覚を持てたとしたら、それが生きる喜びになるし、その生きる喜びは今ここしか味わうことはできないという風に考えた。そんな風に生きていけば、振り返ればダンスのように随分遠くまで来たなということがもう至るかもしれないし、それは誰も分からないですよね。分からない。分からないけども、自分が今こうやって生きることがね、すでに何らかの意味で私たに貢献してると思えやれば、日々はね、毎日はそんなに苦しみではないと思う。嫌われるけどね。特にその今はここ生きるという辺たりを読まれた方の中で、そのストア哲学に非常に似ているという風に言う人が多いです。これはあのマルクスアウリウスの自性力の研究をしたわけですけども、アレリウスが残した言葉を見てると、これはまさにアドラが言っていることではないかと思われる箇所が多々ある。アドラは西洋の古典に通じている人なのでね、あのストア哲学者の文献を読まなかったはずはないです。自分の考えはあのストア哲学に近いという風に意識していたはずだと考えてます。アウレウスはお前っていう風に自分を呼びかけているんですね。はい。お前、お前は外に悩みの原因があると思ってるだろう。それは違うんだと。悩みは外にあるのではなく、外に起こった出来事自体にあるのではなく、その起きた出来事についての、お前の解釈だとね、というような言い方をしてるんですね。で、これってね、アドラ心理学に通じるところがあります。我々は実際に起こったことではなくって、起こったことをどう意味付けているかね。その意味付けによって支配されていると言いますか。うん。ですから同じことを経験しても、そのことをどう解釈するかは人によって違う。その意味付け解釈の仕方を変えていくことが大事であるとアドラは言ってますが、で、それはまさにアウレウスが言ってることであるから、未来のことに、え、心を患らせるなということを残してい。これもね、あの先ほど言ったザハリ日に生きるということ。第3点目ですね。ここ生きるということで、そういう箇所を読んでるとね、あ、随分アトラーの考え方ってマルクサリスに近いなという風にあの感じることが多かった。
まだなお事態は後に追いついていないような気がします。うん。ただしそれはあくまでも現実の人間についての話なので、あの哲学っていうのはね、労です。基本的にね、こうするべきだ。だから理想を追求するんね。だからアドラがま、先ほどアウリウスの名前も言及しましたけど、あるいはプラトンが言ってること全て理想なんですけど、アドラーの考え方思想の中では人間は対等であるという考えは当然のことだとね。何の疑問もの余地もなく認めていたはずなん。マルクスリウスもそういうこと言ってるんですよ。を仲間として受け入れるっていうようなこと言ってます。我々は人類に所属してるんね。我々はコスモリタンなんです。アフレウス自身もね、その自分は皇帝としてはローマに所属してるけど、人間としてはしては人類に所属してるって言い方してる。なんか理論的なレベルではもうもう昔からね、オープンな人がね、当然なことだとしてることを現実の我々がなかなかそれを、受け入れることができないでいる。ひょっとしたら時代が何立とうと変わらないかもしれない。悲観的な方するとね。うん。でも、あの、こうあるべきだということを誰かが唱えきちんと言葉を渡して主張すれば、その考え方が正しいことをした人が少しでも現実のね、対人関係のあり方を変えていく勇気を持てるようになると、この世界はきっと変わっていくであろう。だらはそういうことを願っているいたと理解しています。