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自主性を育てる上で課題に感じることはありますか?

為末大学 Tamesue Academy16:46

Transcription

はい、ため瀬大学の質問コーナーです。え、質問です。ためさんはご自身のお子さんと向き合う中で、基本的にはお子さんの自主性を重んじる傾向にあると、これまでのご発言から推測しますが、一方で社会の教育システムや学校教育に対して問題だと感じる具体的な出来事も経験されたのではないかと思います。そのような出来事が起きた際に、どのように向き合ってこられたのか、是非伺ってみたいです。

はい。これ2つありますよね。私の人生と息子の人生で。ま、息子の方はあんまり、え、なんとか、具体的なことはわかんないですけどね。私が学校の先生やってるわけじゃないんで。で、私の人生の方で言うとです。ま、おっしゃる通りなんです。私は、ま、非常に自主性を、実性を重んじるっていうか、ま、個人の自由を重んじるって感じですかね。ま、そう自分もありたいと思ったし、人に対してもそうやって接する傾向にありますね。よくこう、それはいいことだって言われるんですけど、残酷でもありますよね。なん、堕落する自由も認めるってことです。から子供がゲームやりたいやりたいって言ったらしょうがないな。いいよ、いいよって。でもその代わりそれで困るのはあなただけどね、みたいなことも込みでですね、人はそこに許容するわけですよね。

ま、余談ですけども、こういう実性を重んじる傾向にある人っていうのは、比較的学歴が高いとかですね。え、自分で自分を抑制する能力が高いとか、自己コントロール能力が高いとかですね、特に欲に対してですね、抑性的であるとか、そういう特徴を持ってる人は多いんですよね。だから自由にしとけばきっと自分で大事なものを人は見つけて自分なりに生きていくんだろうという前提に立つわけですけど、これはまあ人口のうちの多分10%、20%ですよね。

その学校の先生とか教育をやられる方で、特にいろんな、あの、お子さんとかご家庭に合う方。ま、例えばあの、ちょっとね、学力が低い学校とか行くと、高校生で算数の掛け算教えてる学校とかありますよね。あの、それ日本だけアメリカとかのはもっとひどいですけど、でもま、それでもあるわけですよね。そういう風に、あの、どうしても頑張ってもわかんないってお子さんもいますから。それと自分にあったレイヤーで学んでいくのが一番ですけど、ま、そういう子たちに全部与えられる教育理論なのかっていうのは、ちょっと考えた方がいいといつも思うんですね。ま、ほとんどの人は自分の人生で同じような、え、まあ、なんて言うんでしょうね。学力とかですね、社会環境の人と会うだけでそこに当てはめる教育理論をみんな語る傾向にあるわけですよね。

これ、ま、油断のさらに油断ですけど、教育の面白いところはですね、自分の人生って必ずみんな経験してきているので、あの、いろんな、あの、ま、時々なんですよね、比較的公的な会議に出ることありますけど、これ安全保障に関して誰も何にも言わないんですね。専門家以外。これ安全保障って要するに、ま、例えばどのくらい軍備を持ったらいいかとか、経済安全保障とか最近言われますけど、レアアースもしめられたらどうすんだとか、なんかいろんなのありますけど、これわかんないんでみんな。大体口をつぐみますね。で、それから経済成績、これもよくわかんない。うん。それから社会保障改革もわかんないと。テクノロジーわかんないなんですけど、教育って言うとですね、みんな1人自分の人生さえ経験してれば語れるんで、だから教育に関してはみ、ま、色々言うわけですよ。例えばうちの子はこうだった。だからこれがいい教育だとかですね。ま、だから教育にはエビデンスが必要だっていう風に言われてるわけですけども、ま、そんなもんだと思うんです。なんか私の教育論もざれ事だと是非思っていただきたいんですけど、ま、ともかく私は自主性を重んじるんですけど、これに限界があるのもよくわかっているつもりですね。あの、多くの人に通用するもんじゃないと。

だけど本人にそうなりたいと思ってる場合は、その人にはむしろ自由を提供した方がいいんじゃないかと思っていて、ま、私は学校の教育なんかは結論になりますけども、できる子ほど先生が教えないっていうのが大事だと思ってますね。先生の役割ってのは、あ、私は応援、伴奏、昔考えたんだ、何だったっけ?応援、伴奏、質問。この3つが先生がやる仕事だと思っていて、応援っていうのは、チェアップする、モチベーションアップする。で、伴奏っていうのは、え、わかんないっていう時こに対して伴奏すると、わかるってことはほっとくと、もう言ってください、どんどんと。で、そういう子にわざわざ介入したりとか、ま、一番良くないのは、ちょっとみんなここでまで勉強してんだから。ま、一番良くないかな。ま、みんなここまで勉強してんだから。あんた待ってなさいっていう。これ日本多いですね。この場合の制限が一番多いですけど。ま、それも走らせてしまったらいいんじゃないかと思うんですよ。

ま、それなりにね、あの、わかってる子は行っちゃいますよね。半数とかでも高校ぐらいまで数学やっちゃいますよね。小学校、中学校ぐらいでわかってる子って。あれをわざわざ制限してみんなと一緒に掛け算で一緒にやってきましょうっていうのは、ま、昔は良かったですけど、ま、これからはいいんじゃないですかね。それよりもわかんない子に先生の時間を費やしていくっていう、これは伴奏ですね。もう1回質問ですね。やっぱり答えを提供するんじゃなくて、なんでそう思うのとか、どうなりたいのとか、どうしたいのとか、なんでこういうこと起きたと思うのとか、そういう質問をやってくっていう、この3つがAI時代の教育者の役割じゃないかと私は思ってんですけど、ま、それはいいとして。

ですので、ま、思ってます。で、私は子供の時は多分あの早熟なのもあって、あの、色々わかってる子だったんですよね。例えば国語の教科書って初日に全部読んじゃって、あとは先生に質問されたら大体わかっちゃうっていう感じだったんですね。漢字だけ苦手で北は多い完璧だったんで、ま、先生からするとちょっとムカつきますよね。なんか全然聞いてなかったり、うろうろしてて、ま、いい時代でしたけど、私多分が強かったんで、教室の後ろの床で私はゴロゴロしてて、でも先生が「もうたせ君はしょうがないの。そういう風に生まれてきたんだ。」あ、いい節に私よく当たりましてですね。ま、許してもらったとかそんなでも質問すると答えちゃうみたいな、そういう感じでしたね。

だからま、それはあったんですけど、ただやっぱり窮屈だったのはま、待たされるですかね。な、何て言うんでしょうね。100m全力走りに来たけど、みんなと同じペースでしか走っちゃいけませんって言われてる感じでしたね。前はなんかちょっとなかなか。あとは特に違和感を子供の中に覚えてたのは、あの学校の体育の授業っていうか体育祭の授業っていうんですかね。運動会の授業でみんなで更新するって時に、ま、これ時々ね、よくああいう時には感じる体験するって言いますけど、なんかみんながみんな一緒に動いてるってことに対してはてな、なんて言うんですかね。あ、みんなが一緒に動いてる。みんながいなくなっちゃったみたいな感じになった時あって、一瞬その瞬間だけみんなの目からこう魂が抜けて目が真っ白の目になってロボットのようになって、みんながただただ機械的に動いてるっていう風になって、よく全体主義を経験した人は全体主義の恐ろしさああいうところに見い出したりしますけど、ま、一方であれ世界から評価されるんですよね。あれがアジアの秩序の原因だ、あの厳選だとか言われたりするんでね。難しいとこですけど、ま、そういうのはあったかなと思います。ま、当時はすごい不満があったような気がするんですけど、大人になってみると色々ね、世界中見て社会の秩序とか色んなものを見て、秩序がない社会もそれはそれで大変難しいんで、個人の能力ある人にとっては不幸かもしれないけど、社会全体にとっては幸福であるっていうこともたくさんありますから、ま、難しいとこかなという風に思ってますね。

で、息子に関しては分かんないですね。ま、今の先生たってだいぶね、八立ち属性とかいろんなものに理解があられて、ま、むしろどっちかっていうとな、何て言うかな、先生の負担大きすぎますよね。私、あの、PTAをやったりしてたんですけど、学校の機会にのお子さんの起きてるトラブル、あれ先生に学校に行くんですよね。でもあれ関係ないでしょ。学校にとって思うけど、みんななんとなく家から出た後は全部学校が面倒見てくれるって思っちゃっていて、それが学校の先生の長時間労働とかですね、負担の結構大きい理由になってんですよ。だから学校って何なのっていうのは、もうちょっと我々引きをしっかりして、あの、皇帝の学校の中に入ったことですよとか、または学校ないで起きた事故は全部学校の責任とか、そういうのをちょっと、ま、本当は柔らげてね。え、学校ってのは施設管理の話じゃなくて、子供たちの教育の話であって、生活指導とかそういうことも、ま、学校じゃなくて家の質だよね、みたいなものを、ま、ちゃんと社会の中で合意を取っていき、ま、それでも難しいところは、あの、社会で子供を育てていくっていう風にですね、社会が関与していくってことは大事だと思ってるわけですけども、ま、ちょっと、ま、余談が過ぎますが教育の話なんで、えっと、そう思ってます。

で、息子に関してはですね、あの、言うんですね、同じようなことで、ま、学校の曲どうしても画一的だったりするんですけど、息子にはあの、そういうゲームだって言ってますね。で、世の中ってのはお父さんも、あの、アメリカに行った時はアメリカのルールみたいな方、なるほど。この国でうまくやるってのはこういうことなのか。で、中国に行った時は中国の振る舞があり、え、例えば東南に行ってなんか取材しようと思うと、昔村長さんに呼ばれて、「ま、うちの村で取るつもりかと。で、じゃあ俺と1回話せ」って言って行ったらもうなんか亀の中に緑色のコケが浮いてるような酒が出されて、で、それをすがれたんで、それをもう飲むしかないですよね。で、全部出たものを完全に飲み切ったら最高。前もう全部何やってもオッケーってなるわけですけど、そんなことならないわけです。例えばこれを、え、都市部のですね、あの、どっかで見たりしたらお酒を進められて飲まないと取材させないってアルコールハラスメントだとか、え、それからあの、ま、上座村長さんがいて、周りを女性何人かの人がいてサーブしてるって、これダソじゃないかとかいろんなツッコミとかあるんですけど、でもそうな、そこはね。で、アメリカはアメリカで日本は日本、日本も都市部があったり、地方があったり、色々それぞれ場所にあって、世界中全部で統一できる正義なんてないわけですよね。で、それぞれのルールが何で動いてるかっていうのを推測しながら、ま、それがあまりにも的だったら修正をかけるように自分でやれることはやるけども、でも一方であの文化を尊敬もしなきゃいけないしとかっていうのの正解がないものをどうやってやっていくかっていうゲームなんとか世界中でやってた。で、お前は今学校というゲームの中に入っていって、そん中でどういう風にあるか、あ、なるほど。ここはこういうルールなんだってものをうまく学んで振るを練習なんだ。で、家は家で違うし、スポーツクラブ行けばそれで違うと。で、1個1個の指導の仕方が、ま、これも加減ですけどね。これを超えたらダメなんだっていう風にパッパと全部を共通させようとするあの方結構いますけど、そういう人は本当に途上国に行くと弱い。訳わかんないわけですから。インドとか行くと。で、訳わかんない中で結局誰がボスなんだろうとかそういうの推測していくってのは私は生き抜く力だと思うんですけど、そういう意味でルールが全然違ったり矛盾することを指導される中で子供たちが自分の、ま、これある程度年齢行ってからですね、あの、ちっちゃい時は多分一貫した方がいいと思うんですけど、ま、そういう言い方をしてますね。だからあのゲームを学びに行ってるっていうんですかね。ゲーって言うとちょっと失礼かもしれないけど、そこがそういう動きをしてる場所なんだっていう風に言って、ま、自分なりに変えた方がいいことやったらいいんだけど、とはいえ気に入らないからそこをやめるとかですね。気に入らないから全部変えろっていうのはそれどこに行っても通用しないわけです。日本にもいっぱい矛盾ありますけど、じゃあ自分が総理大臣になったって変えられないわけですよね、全部。だってそれがいいっていう人がいるわけですから。それをコンセンサス取りながらちょっとでも良い方へ運んでいくってのがリーダーシップであり、え、ま、自分自身が社会に対するアプローチなんでなんか違う嫌だ、あの気に入れない嫌だみたいなのは、ま、若干幼稚だよねと大人でもいますけど、ま、でもそういうもんだろうと思う。その練習だっていう風に思ってますね。街は戻っていって、ま、だから自主そう思ってます。

だからそ自主性って呼んでるものをなんかあまり何のルールもない中で自由にやるっていう風に思うのは私は何て言うんでしょうね。非常にも脆ろい自主性だと思っていて、この実性を育ててる方もいるんですけど、これはですね、なんか言い方変えると都市部でロジカルで一定水準の、え、学一定水準で学んできた人たちがいるコミュニティでのみ通自主性の世界があるんですよね。で、ま、世界中色んな人がいますから、例えばそれ中東で行けますかとか、それロシアで行けますかとか、そういうところでも発揮できる実のその場所におけるいろんな条件を察しながらそこで自分を主張していくってもんで、どこでも自分をあの無限に出していくっていうのはこれはまあ国際社会においてはあいつ頭悪いなっていう扱いにしかならないわけですよ。なぜなら文脈依存なんでコンテキストと全く無視できる国ってあんまないですね。アメリカは若干そうですが、それでもアメリカでも空気読みますから、やっぱり自主性っていう全く環境と関係ない私を出していくって能力を獲得しましょうってのは若干幼稚で本当に大事なことってのは自分を出すんだけど環境を見ながらどういう出し方とかどういう差し出し方とかタイミングを読みながらあのやってくってのはま実性かなという風に思っていて、それをまやっていくのが大事かなと思います。

で、それをどうやって育てんのって言うと、私は正直なところ実性性は、え、削らない、抑制しない以外に育てるは難しいんじゃないかと思ってますね。でも逆に言うと実質性どう育てたらいいんだろうって悩んでらっしゃる方も、その実質性の制限のところさえ外してあげれば結構子供たちが実発揮してくんですね。で、何かって言うと、やっぱりコントロールしたいと思うようにしたいっていうのを大人側がいかに抑制するかですね。ま、さっきの話も一緒ですけど、本来学校こう終わるべきなのにそうじゃない。その学校をコントロールしたいっていう、これもある種の実はな、何て言うかな、英語なんですよね。なぜかそれがいいという人もいますから。そういう意味で大人が子供に対して自主性を持って欲しいもあるしのコントロールなんですよ。で、そこから離れて、まあしょうがないよね。あんたの生きたように生きるしかないわよねっていう風にふっと離れた瞬間に子供はそれを察しますから、あれ自由になっちゃったみたいな。それをいかに作るかが大変重要で、あの表面上のこういう声かけをしましょうとか、こんなアプローチをしましょうとか、子供にはこうしましょうっていうのは全部ただのテクニックで、本質的にはその人の心の中に世の中をコントロールしたいと思う通りにしたい。この子の人生を思う通りにしたいっていう欲求、それ形としてはですね、この子に幸せになって欲しいですけど、その根源にはこの子の人生を私の思う良い人生に導きたいっていうこの欲求がある限りは本当の意味の実生は子供には手に入らないんじゃないかと思ってますね。で、その手放しのほうがむしろ大人には問われていて、これは私も修行中ですけど、全ての大人はみんなね、いろんな経験してこの子にはこうなってほしい。不幸せになって欲しくない。だからこういってほしい。でもそれは1つのコントロールでもあってっていうので思い悩みながらですねやってくわけですけど、ま、修行です。ま、本当にそういうことありますからね。あのそれ例えばドラックやるっつったらそれダメでしょって。絶対ダメですから。そういう感じのこととでもこれはいいかなってことの境い目をみんな悩みながらやってんのかなと思いますね。ま、次回を込めてですね、教育に関しては全て大。

はい。あの、いい質問でもありがとうございます。ということで、大学では皆さんが質問に回答するという形で運営しておりますので、質問がありましたら是非こちらにお寄せください。