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為末さんは意見といい感じの距離があるように感じます

為末大学 Tamesue Academy8:32

Transcription

はい、質問コーナーです。質問です。たせさんの話を聞いていて印象的に感じることがあります。それは、話していること、事象や意見と、たせさんの間にいい感じの距離感があるということです。特に日本人や日本語の言説は、どこか話者と意見がくっつきすぎていて、それがどこか圧迫感を感じさせるように思います。たせさんが意見を述べる時、話す時に何か注意していることがあればお聞かせください。

ありがとうございます。ま、私本来は思い込みがね、非常に強い人間なので、ま、トレーニングで多分獲得した、もしそんな印象持たれていたらですね、トレーニングで獲得したんじゃないかと思うんですけど。あの、あんまり意識していることないんですけど、一つ自分がやることはですね、えっと、よくディベートで「悪魔の代弁者」っていう風に聞いたことありますかね。それはもう、あえて過激な意見とか、あえてエクストリームみたいなこととか、あえて反対意見を述べることで議論を稼働させるってことなんですけど。私が会議に呼ばれる時は、大体この役割だって思っていて、あえてですね、結構過激な意見を言うようにしています。

で、それはそのことを言うと、「いやいや、それたせさん、ちょっと言いすぎでしょ。それはないんじゃない?」ということを言って、でも「どうないんだろうか?」という風に聞くと、「それはだってこういう理由で、それは無理なんだよ」と言った瞬間に、その「こういう理由」ってところに、ま、あの、ま、重心って言うんですかね、重さが出てくるっていうか、それがその人の意見の中核なんだなっていうのは分かってくるなと思ってんですね。

だから、ま、イメージなんですけど、あの、うんといこう、なんかビーカーの中にですね、とあるものが置いてあって、で、下に泥があって、その中にその人の本当の信念っていうか、意見が沈んでいるんだけど、でも普通に話していると、その中に何があるか見えないの。で、そういう悪魔の代弁者的なこととか、いろんなことをやると、その人の意見がわーっと揺さぶられて、で、その泥が舞い上がって、全体がうっすら見えた時に、その下にあった形が見えてきた。「あ、これがこの人の本当の意見だったんだ」っての分かってくるっていう、ま、それをイメージすること多いんです。あの、会議の時に。

最初のうちは結構びっくりされて、「めちゃくちゃ過激な意見を持つ人だ」って言うんですけど、でも実は撤回もめちゃくちゃ早いんですね。例えば、「こんなことありえますね?」って。「いや、それありえない」って言ったら、「そうですよね」という風に撤回して、なんか向こうからすると、なんかちょっと「のれんに腕押し」感があるみたいなんですけど。でもそうすることであの、ま、中核の意見がこう見えてくるっていうのを、ま、好んでいるんです。

なので、ものすごく突き詰めると言うとですね、実は私は何も意見がないんです。ま、意見がないわけじゃないんだけど、何もし、そこまで信念がないって感じですかね、私。ま、唯一の信念があるとすれば、ま、私自分自身であの、自分のあのコンセプトは「良い土壌を作るために私がいる」と思っていて、ま、土が良ければいろんな種類の花も育つじゃないですか。植物で。その土作りっていうのは私の自分のやるべきことだと思ってるんで、それをやるってやってるんですけど。ま、そっから考えていくとなんか私 がこうした方がいいってのは特にないんだけど、あ、相手の人とか、その場所の人たちが議論されていることの1番根底にある信念って何だろうっていうことにとても興味があるので、それが見えるまでちょっと揺さぶってみるっていうのはよくやることがあります。

なので私が何かを言うっていうことは、実はそう思ってるってよりも、そういう風に言うとみんなのが刺激されて、みんながああだこうだ話す中に、それぞれの人が「自分ってこれを信じてるんだ」とか、「自分はこう行きたいんだ」とか、「自分はこれが大事なんだ」って見えてくるっていうプロセスを、えー、ま、プロセスを生むためにボールを投げているっていうのにちょっと近いかもしれないですね。なんか別の例でいくと、あの森に何かを投げたら鳥が飛んできて、それ鳥が飛んできて、バンって打つみたいな話にちょっと近くて、なんかその本当に狙ってるものじゃなくて、え、みんなが議論を活性化させるための何かを投げ るっていうことが多いと思うんですね。

で、おっしゃっているところのもう一つ面白いポイントは、ま、あの日本語の言説は、私と意見がくっついているっていうところなんです。これやっぱこ文化っていうんですかね、それ を言ったからには、その人はそれを信じているんで、違いなっていうことが、ま、非常に強く出ますよね。だから「そう言ったんなら、そう信じているんだ」ということです。

で、これはまた別の話で「内面の自由」っていうのがありましてですね。やっぱ人間が何を言うかとか、何を振る舞うかっていうことと、その人は内側で何を信じているかっていうことのがありまして。例えば私たちは、その人がやったこと、言ったことに対してはばしったりですね、避難する、批判することできるんですけど、内面で信じていることを批判はできないわけです。つまり、人が何を信じているかよくわからないわけですし、どう思っているかなんて見えないので。だからあくまで外の振る舞いをやりましょうってのが、ま、法的にもですね、内面の自由には踏み込まないっていう風に決まっていますけれども。

なぜか日本人はですね、結構この内面の自由に踏み込む性質があるんですね。で、内面の自由 に踏み込む性質がある、ま、これ東アジア権が 多いと思うんですけど、そうすると、えっと、比較的こう全体主義的な空気に染まりやすいわけです。我々我々の国はね、戦時中に国家がこういう風に考えてほしいという考えを持つように強制したっていう歴史がありますけど、それ内面の自由に踏み込んでいるわけです。でも一方でこれは、じゃあその時の特殊な例かっていうと、その後、学生運動の時とかでもですね、あの学生たちが、ま、あの、色々運動していく中で何かを信じているところに「総括」と言って、本当に自分がそう思っている中、一時でも疑いおったら、自分から自己開示して反省せよってやって、思いっきり内面の自由に踏み込んでいくわけです。

だからこれはある種の日本の追い風というか、内面の自由に踏み込んで、あ、その人が内側から何を考えてるかに対しても手を突っ込むっていうところがちょっとある。しま、同時に「言ったってことはそう信じているんだろう」っていうのを思いっきりくっつけて、あえて言うとか、あの自分と意見を離してやるとか、そういうことが苦手なんだろうなと思うんです。

で、それがま、それと繋げていいかわからないですけど、ま、「生と死の精神史」っていう素晴らしい本があるんですけど、この本の中でま、色々心の西洋と与の違いとか整理していくんですが、あの日本の心のあり方っていうのは「何々と共に」というのが特徴じゃないかっていう着地をされているんですね。やっぱり桜を見ながら私たちは純粋に桜っていうの対象として私は見ているんではなくて、桜を見ている時私もまた桜に見られている、ま、または桜と私がとなっているみたいな、この辺の曖昧な感じをですね、ちょっと持つわけです。

日本語っていうのはwithなのか、何なのかわからないですけど、教会が非常に曖昧であるっていうのが日本の、ま、私の心の特徴かなと思っていて、それがまあ言葉にも現れている、または言葉からそういう心が作られたかもしれないですけど、そんな風にあの思ってます。

なので良い面でいくと、物事に教会を作らず曖昧であるがゆえに多くのものを包括できるという点があります。悪く言うと、え、ま、同調圧力につながりがちですし、私たちの心っていうのは、ま、どんななんて言しょね、心、言ったってことはその心もそうじゃないか、常に言葉は自分の内側のトロであるという。むしろそこで嘘ついてると、なんか言葉にか信じられないみたいな、そんな風になっちゃうところがあって、ま、ディベートに向かないですよね。そうすると、ディベートっていうのは基本的には自分と意見っていうのを切り離しながらやっていくもんなんで、立場を決めた後にやるような、ま、ゲーム的なとこもありますから。

まただ、そのディベートの技術、やっぱり日本人、苦手とはいえ覚えていった方がいいなとは思います。あのですので、私は何かを喋っていると思ったら、ま、9割ぐらいは「こいつ何も考えてないな、何も信じてないな」と。ただ、それを言うとみんなが考えるきっかけになるから言ってんだろうなと思って、もらえると、あの良いんじゃないかなと思います。

はい、ということで、え、これ質問コーナー。皆さんのご質問で成り立っていますので、どうぞ年々ご質問いただければと思います。