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試し大学の質問コーナーです。
「いいから やれ」という言葉でその理屈を教えない。それに対する疑問や反論は受け付けない態度で子供に接する点は、教育でよく目に耳にする過法などの問題と似ていると個人的に感じています。
というのも、私もそういう支配的で過ほな親に育てられたと自覚しており、その結果、自分の人生における主体性の、人生が自分のものであるという感覚が規約なまま大人になりました。
質問ですが、そういう支配的な環境で育った人が、自分の人生における主体性を好点的に獲得することは、いかにして可能でしょうか?こういうことを人に聞くところは死体性がないと言われてしまえばそれまでですが、田瀬さんの見解をお聞きしたいです。よろしくお願いします。
はい、これはですね、ありがとうございます。え、おそらくですね、思われてるよりも多くの方がこの感覚を持たれてるんじゃないかと思うんですね。え、私は、ま、多分かなり幸いにしてですね、それが普通だと思ってたんですけど、相当法年主義の家だったので、ま、自分のやりたいようにやって、自分の人生ってのは自分でやってんだという感覚を耳にし、目につけましたけど、やっぱり周りの友達はですね、に聞くと色々今家の、ま、大体家 のことですね。ある年齢になると大変だ。自分の中で思い返してくるのは。で、特にエリートの方多いですよね。あの、あの、しっかりなんとかな、勉強してきた人たちに多いなっていう感じがします。
で、これ今おっしゃってるところはちょっとそういか分からないですけど、とても素晴らしいポイントついていて、つまり「いいからやれ」っていうことで疑問や反論を受け付けないっていうことと過保護が似ているっていうと点ですよね。一見ちょっと違いますよね。こっちは強件的にやらせるっていう話とこっち過保護ってのはその人過剰に守るってことなんですけどこれの共通点おっしゃってますよね。これ何かって言うとですね、簡単に言うと自己決定権を認めないってことだと思うんです。
で、自己決定権を認めないことにこの2つ違いはありまして、え、やり方違うん です。でも私は同じだと思ってんですけど、片方はですね、簡単に言うと自分の思うようにやれと。ま、ちょっと象徴的に言いますけど、多分父親に多いパターンだと思うんですけど、これがいいと思う。こうすべきだからお前はこれをやれっていうパターンですね。この力でねじ伏せる、こうするべきなんだお前はっていう自分の考えを押し付けるモデルですね。
で、もう方の方の方はですね、心配モデルですね。どっちかって言うと、あ、この子がこうなってしまって、この子の人生で傷ついたりしたらかわいそうだとか、え、こんなことが起きたらどうしようってことを思うことでよかれと思ってその子をある領域に縛りつけるってやつですね。つまり心配によって危険なことから遠ざけると。で、ま、これ危険なことって何かって言方を変えるとですね、つまり自分の知らないことは人は危険で不安だと思いますから、自分の知らないこと、自分の手が及ばない範囲に出さないっていうやり方をするわけです。つまり自由にさせているようでいながら、あの、犬にリードつけてるみたいに首に紐をつけていって、その紐の範囲から出さないってやり方をやっていくわけです。
これアプローチ全然違って外から見るとこっちは頑光味で、こっちが心配する。ま、母親象徴的に言いますけど、これ男女の場合も全然ありますけどもなん ですけど、でもあのやってること同じです。俺の言う通りにやれって言ってやら せようとする。こっち側は心配することによってその範囲を出さないようにするの。で、時にはですね、実はこっちの方が暴力 的になることもあるんです。なぜならばこっち側はうるせえなあの親父って状況が作れるんですけど、こっちの場合は、ま、あの、以前少しこれね、なんか海外のやつでバズった動画ですけど、え、「いいからやれ」っていうものに関してはあいつは鬱陶しいって言える範囲が残ってる。なぜなら悪いのはあいつだからって言えるんだけど、でもこっちの方は、「何々ちゃんは、え、こういうことしちゃいけないってよく知ってるよね。で、そうしないってみんな信じてるからいい子だよね」っていうやり方で相手の倫理感とか善悪に対してこうある種の縛りをかけていってそういうことして しまう人は悪い人だけどあの人あなたは悪い人じゃないよねっていうやり方でその人を縛ってくる。
で、これは悪いことした時の、はみ出た時の責任がこっちが親の反発で済むんですけど、こっち側は自分の責任に追うというか、つまり一見自分で選ばせてるようで、自分で選んでるようでいて、そう選ぶ、選ばざるを得ないようなところに押し込んでいってるのがこの手法なんですよね。って時にはこっちの方が根が深いことは私はあると思ってんですが、ま、そういう感じにあの知らず知らずのうちに人を縛っていくやり方ってのはやっぱり世の中にたくさんあって、これが表面で見えてるものとは違い違うわけです。こっち側パワっていう風に認定しやすいけど、こっち側の方 はもっとなんて言うかな、こうえぐいやり方って言うんですかね。で、やってそ、こうするべき、こうするよね。あなたならって言ってやった責任はそれを選んだのはあなたよねって言い方もできてしまうとちょっとなんかちょっと言い方があるすいません。なんか繰り返しになりますけど、ま、象徴的に言ってますけども、ま、そういうことが起きえるわけです。
で、じゃあどうやってこれ主体性獲得すればいいんだろうっていうのはこれ私自身が実感としてないのでうまく表現できないんですけど1つはですね、まであるっていうか自分らしく生きることはえないことだっていうどっかで思ってることをやっぱり突破すべきだと思うんです。つまり自分らしく生きていいんだっていうことどっかでやるべき。ただしこれやる時にですね、ま、間違いなく周辺との圧歴を起こすんですよ。見ているとなぜならあの加減がわかんないんだ。自分らしく生きるっていうことっていう自分らしく生きてる人の多くはですね、自分がやりたいからって人に暴力振ったりとか、あの痴漢還したりとか万引きしたりしないわけですね。やりたいようにやるって言ってる人のほとんどは社会的批範の中でやりたいようにやってるだけで本当に社会 的批判を超えたらこのシバにはいられませんからなんかあの人やりたいにやってるねっていうのも相当実は我々が社会で規範を持ってるものの中で生きてるんですね。ドラッグもやらないしみんな人殺しもしないわけですがその部分だいぶ制限かかってますよね。だから実はやりたいようにやることなんて世の中にありえないわけです。社会規範の中で社会で生きてる以上はでもその中で社会と取り合いながら自分らしく生きるっていうことをま普通はできるんです。普通っていうか、ま、伸びノびできる人もいるんですけど、これがわかんないんですね。つまり社会の規範のだいぶ内側に自分の内在的なこうこれはしてはいけないことだっていうものを抱え込んでしまっているので、で、これが主体性のなさに見えてるだけだと思うんです。つまり本当に主体性がないわけじゃなくて、社会規範を自分の内側に取り込まざるを得ない状況にいたんで、自分って自分に最初に突っ込み入れちゃうわけです。何かをしようという時にそんなことはしてはならないとかっていう。で、この、これを繰り返していくと当然学習性無力感みたいな感じでそのうちに声も出さなくなってきて、自分の内側にあるこういうことやりたいっていう子供が喋んなくなるんですけどいますからね。でもその子解放させるってことなんだろうと思うんですけど、最初はやっぱりですね、子供なんで、しかも久々なんで自分を出していくのは外と起きるわけですよ。自分をガンと出しすぎて。で、でもまあやっぱこれを私はプロセスを経ていくしかないんじゃないかと思うんですね。つまりある程度わがままになれると自分の人生でずっと前半苦しかったんでしょう我慢してきたんだろうし、あの自分で自分を押さえつけてきたわけなんでそれをまもうちょっと解放してま思いっきりはめを外したらどうですかっていう感じだと思うんです。ま、でこの時に多分鍵になるのが心理的安全性で、ま、そう なった時でもまあ人間大体ポンコで愚かなんだからそれもしょうがないよね。だって俺だってポンコだからっていう感じの人がうまくまとの周りにいると、ま、上手にわがまを解放できんじゃないかなという風に思ってますね。
で、それを経た上で、ま、これ人によって私のなんか心理学の本とか読めとちょっとスタイルが違いそうなんですけど、あの、やっぱり原点は昔にあるから子供の時に何が嫌だったかちょっと振り返りましょうねって過去を振り返るモデルもあってやってく。ただこれって、え、いい、いい点としてはなんか根源的なものを見つけて自分がそうだって思えるんですけど、悪い点としてはこれ物語用によってはいくらでもいけちゃうん で、なんかまるでそうじゃないことをそれが原因だったようにして過剰に親を憎むとかまたはなんか別のものに怒りをぶつけるとかになっちゃいがちなんです。思ってれば人間って起きた出来事と今の間の物語論理性ないですから勝手にそうだって決めつけちゃうとそうなっちゃうわけです。そう なってる可能性は結構あるので、あ、あるので、これがリスクだと思いますね。でもそうじゃないモデルで行くとしたら、まあな、何て言うんでしょう? え、じゃあところで何これからやっていきたいのっていうのを自分にちょっと聞くことで、ま、少し伸びノびしていくっていうモデルがあり得るんじゃないかなと思ってます。
で、もうちょっと別の観点言うとですね、死体性がないことが良くないっていう前提がありますけど、主体性がなくても苦しくない人っていっぱいいるんですね。で、つまりここでおっしゃってる1番大きいポイントは死体性がない。自分のやりたいことがないっていう感覚が苦しいっていうどこかあるんじゃないかと思うんですね。それはやっぱりなんか本来の自分、ま、本来の自分があるかどうかともあれなんか自分を抑圧してる何かがある感じがして、それは何なんだろう。それを取り払いたいって欲求があるんじゃないかと思うんです。あとはそこと向き合っていきながら少しずつ降り合っていくってことなんだろうと思います。で、とにかくでも片隅に置いといていただきたいアイデアは死体性なんかなくても生きていけて人はそれはそれで、え、十分幸せなんじゃないかって感じなんです。ただ苦しいんならそれをとっ払った方が良いんだろうという考え方をされたらいいんじゃないかと思い ます。
あの、いずれにしてもこれは私は本当に自分の人生になかったけれども大人になるプロセスであ、こんなによるなって のはこういういろんな抑圧とか特に過保護問題は結構大きいと思うんですよね。見えない暴力っていうんですかね。よかれと思った。あの透明な暴力なんでこっちは根が深いですから。ま、これをどうやって、ま、これでもそうする親御さんもそのように育てられてるわけですよね。だから一体原因はないんですけども、ま、どっかのタイミングでやっぱりある程度自分をこうリリースしていくっていう必要があるんじゃないかと思います。でも繰り返しになりますけどリリースすればどこかにあるがままの自分がいて主体性があり完璧で一貫性がある自分がいるなんていうのは私は嘘だと思っていてどこまでも行っても人の自我ってのは曖昧で、え、みんなこの主体のなさにはある程度の疑いを持ちながらまあそれでもいいかって生きてるような感じだと思います。思ってるよりも世の中の期待ってのは低めで、ま、それでも十分幸せになれると私は思っておりますが、いかがでしょうか。