Transcription
なぜ中世ヨーロッパには結婚できない男が多かったのか。
14世紀から15世紀のドイツやフランド地方、石畳の町並み、教会の鐘、市場に溢れる人々。しかしその多くは土地を持たずギルドにも入れない若い独身男たちだった。ギルド制度、土地相続の壁、教会の婚姻規範。これが彼らの結婚を阻んだ。
夜明けの鐘が鳴り響く狭い共同宿で、ハンスは目を覚ます。「寒い。」部屋には5人の男が雑魚寝している。毛布は薄く隙間風が入る。歴史家ジャック・ルゴフの『メディバル・シビライゼーション』によれば、こうした共同宿は都市仮民の典型的な住居で、衛生状態は劣悪だったという。
教会の鐘が朝を告げる。ハンスは急いで上着を羽織る。「礼拝に遅れるわけにはいかない。」公開では身分によって座る場所が決まっている。前方には商人や裕福な職人。後方にはハンスのような日雇い労働者たち。神の前では皆平等である。しかし地上での勤務めは各々異なる。
礼拝の後、ハンスは破れた上着を縫い直す。「この仕事は母から習った。これでもう少し持つかな。」「硬い。」「まだましさ。昨日は水だけだった。」「そうですね。」朝食は黒パンと薄いスープ。歴史家フェルナン・ブローデルの『シビライゼーション・ア・キャピタリズム』によれば、黒パンはライ麦や大麦で作られ、中世の庶民の主食だった。小麦は栽培が難しく高価で、白い小麦パンは貴族や富裕層だけの贅沢品だった。
ハンスは黒パンを薄いエールで流し込む。都市部の水は汚れやすかったため、低アルコールのエールが安全な飲み物とされた。子供も薄いエールを飲んでいた。「これがないと喉を通らない。」
市場へ向かう道。パン屋からは焼きたてのパンの匂いが漂う。しかしハンスのような農民には手の届かない贅沢品だった。「いい匂いだ。」パン屋の奥には大きな共同釜が見える。水車もパン焼きも漁師が独占していた。庶民が使うには利用料を払わねばならない。この仕組みを手数料と呼ぶ。領主は公共施設の利用料で収入を得ていた。
人々の声、馬車の音、人々のざわめき。「新鮮な魚だよ。」運び朝から晩まで石畳の道を歩き続ける。歴史家クリス・ダイヤーの『スタンダーズ・オブ・リビング・イン・ザ・レイター・ミドル・エイジズ』によれば、日雇い労働者の賃金は熟練職人の半分以下、生活は常に困窮していたという。「よいしょ。早く運んでくれ。」「はい。」
昼休み、仲間の日雇い労働者たちと市場の隅で休む。「疲れた。今日も暑いな。」「腰が痛い。」昼も黒パンだけ。庶民が持っているのは木のスプーン。フォークはまだ普及しておらず、ほとんどの食事は手掴みで食べられていた。「あ、そこ見ろよ。商人の旦那たちは肉を食ってる。」「俺たち、去年のクリスマス以来肉食ってないな。」肉か。肉は貴族や富裕層の象徴だった。貧しい庶民にとって家畜は財産であり、労働力。簡単には食べられない。肉を食べられるのは祭りや特別な日だけだった。
ハンスは市場の向こうに見える大きな建物を見つめる。そこがギルドの工房だ。「あそこで働ければ。」ギルドとは中世ヨーロッパの同業組合だ。鍛冶職人ギルド、パン職人ギルド、大工ギルド。同じ職業の者たちが団結し、技術を守り利益を独占する組織。現代で言えば業界団体、労働組合、技術認定機関、定期的な会合を全て兼ね備えた強力な組織だった。
「ハンス、ギルドに入りたいのかな。でも無理だよ。加入金は年収の数年分だぞ。」ギルドは生活を守る。病気になれば援助金を出し、死ねば費用を負担する。しかしその代わりに部外者の参入を徹底的に拒んだ。なぜなら会員が増えれば一人当たりの仕事と収入が減るからだ。「そんなに。既存会員2名の推薦も必要だ。」「誰が俺たちみたいな奴を推薦するんだよ。」
その時、裕福な商人の息子が馬に乗って通りすぎる。ハンスたちは慌てて道を開ける。「そこどけ。」「失礼しました。」歴史家ジョルジュ・デビーの『スリー・オーダーズ』によれば、中世の社会は聖職者、騎士、労働者の3身分に厳格に分かれていた。さらに都市ではギルドに属する職人と属さない日雇い労働者の間にも見えない壁があった。「俺たち人間扱いされてないよな。」「仕方ない。それが世の中だ。」
「ハンス、水を飲め。倒れるぞ。」「ありがとうございます。クラウスさん、無理するな。若いから体を大事にしろ。」クラウスは50代の老職人。ギルドには入れなかった。しかし腕は確かだった。クラウスさんは結婚はしなかった。できなかったというべきか。歴史家ブロニスワフ・ゲレメクの『マージンズ・オブ・ソサエティ・イン・レイト・メディバル・パリ』によれば、中世の都市では独身男性同士が助け合うコミュニティが存在した。同じ境遇の男たちが支え合い生き延びた。
ある日、荷運びの途中でパン屋の前を通る。窓からエルゼが働いている姿が見える。エルゼはパン屋の娘、ギルドに属する職人の家族だ。ハンスとは身分が違う。「エルゼが来てる。」「はい。」「ハンスさん、」ハンスのような日雇い労働者が職人の娘に話しかけることは礼儀に反する。
日曜日の礼拝。司祭が結婚について説教する。「結婚は神聖な奇跡である。しかし貧しくも無謀に結婚すれば、やがて罪を犯すことになる。」中世の教会は責任ある結婚を説いた。経済的基盤のない結婚を戒しめていた。貧困層の人口増加を懸念したためだ。「神は各人にその分を定めたもうた。汝の身分に応じた生き方をせよ。」ハンスは後方の席でじっと聞いている。「俺には結婚する資格がないのか?」歴史家ジョン・ハジナルの『ヨーロピアン・マリッチ・パターンズ』研究によれば、中世ヨーロッパの多くの地域では結婚には独立した世帯を営む経済的基盤が必要だった。地域によって差はあるが、男性は平均27~28歳まで、女性は24~25歳まで結婚を待たねばならなかった。貧しいものは一生結婚できないことも珍しくなかった。
礼拝の後、司祭が続ける。「明日より断食の日々が始まる。肉を口にしてはならぬ。魚は許される。」キリスト教の断食文化は食生活に大きく影響した。断食には肉が禁止され、魚がよく食べられた。ただしハンスのような貧しいものにとっては、普段から肉など食べられない。「何食って言われても、普段から食ってないけどな。」「そうだな。」
数週間後、ハンスは勇気を出してギルドの門を叩く。「ここだ。」扉の向こうからは金槌の音、木材の切りの音が聞こえる。「あの職人、習いになりたいのですが。」中には広い工房がある。親方と弟子たちが木材を削り、金属を叩き、布を追っている。生々とした秩序。厳格な階層。「また、のぼりか。」「はい。でも真面目に働きます。」「真面目なだけでは足れん。加入金は年収の数年分に及ぶ。さらに既存会員2名の推薦が必要だ。」「数年分、推薦。払えないなら話は終わりだ。」ギルド長の言葉に悪意はない。ただ制度がそうなっている。歴史家S.R.エプシュタインの『フリーダム・アンド・グロース』によれば、中世後期のギルドは特権を守るため条件を厳格化していった。「俺、頑張って貯めます。」「部屋の給料では何年も何も食わず何も買わずにも足りぬかもしれん。」ハンスは言葉を失う。計算すれば分かる。不可能だと。さらにギルドは都市政府とも結びついていた。ギルドに属さないものが同じ仕事をすれば違法として処罰された。ギルドに入れなければ、その職業に着くことすらできなかった。
ある日市場でハンスは洗濯女のマルタと出会う。「よいしょ。手伝いましょうか。」「ありがとう。助かるわ。」マルタは20代前半、貧しい農民の娘で都市に出て洗濯女として働いている。ハンスと同じ日雇い労働者だった。「あなた、運びの仕事してるのよね。」「はい。ハンスって言います。」「私はマルタ。よろしくね。」
その日からハンスとマルタは時々話すようになった。同じ境遇の二人。会話は自然で気兼ねがない。「ハンス、これ食べる?玉ねぎ?」「うん。市場で安く売ってたの。生で食べると元気が出るのよ。」庶民はキャベツ、玉ねぎ、豆類を日常的に食べていた。貴族は中世医学の影響で生野菜を避けたが、貧しいものにとって野菜は貴重な栄養だった。「辛いけど美味しいでしょ?」
「ハンス、いつか自分の家へ持ちたいわね。」「俺も。でも無理だろうな。」「二人で働けばなんとかならないかしら。」「無理だな。」「な、クラウスさん。結婚するには独立した世帯が必要だ。部屋を借りるかね、家具を買うかね、子供を育てるかね。でもお前たち二人の収入を全部足してもギリギリ食べていけるだろう。子供ができたら、病気になったら、冬になって仕事が減ったら。」「そうよね。」歴史家ジョン・ハジナルの『ヨーロピアン・マリッチ・パターンズ』研究によれば、中世ヨーロッパの多くの地域で世帯を形成できる経済力が結婚の条件だった。教会も貧しい同士の結婚に対して経済的無謀さを戒める訓戒指導があった。生まれた子を養えず物乞いや犯罪に走ることを恐れたためだ。「そう。私たちは一生。」「そうかもしれない。」
二人とも現実を受け入れるしかなかった。冬が近づき仕事が減る。ハンスの収入も減った。「金があたりない。」歴史家クリス・ダイヤーの『スタンダーズ・オブ・リビング・イン・ザ・レイター・ミドル・エイジズ』によれば、日雇い労働者は季節変動の影響を受けた。冬季は建築工事が減り、収入は下期の半分以下になることも珍しくなかったという。「これで明日の分も。」「ハンス、食べないのか?」「大丈夫です。お腹空いてないんで。」「無理するな。」
ある夜、ハンスは破れた靴を見つめる。新しい靴は買えない。靴底に穴が開いている。雨の日は足が濡れる。歴史家フェルナン・ブローデルの『シビライゼーション&キャピタリズム』によれば、中世の庶民にとって靴は高価な品で、多くの人々が破れた靴を縫いながら何年も使い続けたという。「これでもう少し持たせるしかない。」
日曜日の後、教会での施しが行われる。「神の慈悲により、貧者に布施を与える。」「ありがとうございます。」歴史家ミッシェル・モラットの『プア・イン・ザ・ミドル・エイジズ』によれば、中世の教会は貧困者に対して重要な役割を果たしていた。しかしそれは最低限の生存を保証するものに過ぎず、貧困からの脱却を提供するものではなかったという。施しを受ける列に、ハンスと同じような若い独身男が何人も並んでいる。「今日も生き延びられた。明日も生きられるかな?」ハンスは気づく。自分だけではない。無数の男たちが結婚もできず、ただ生き延びるだけの日々を送っている。
ある雨の日、仕事がなく、ハンスは濡れながら市場の隅で座っている。「もう疲れた。」冷たい雨が降り続ける。体が震える。破れた靴から水が染み込む。ギルドにも入れない。結婚もできない。「俺の人生って何なんだ?」
その時、クラウスが近づいてくる。「ハンス、何してる?風邪引くと。」「クラウスさん。」「俺も昔お前と同じことを考えた。ギルドに入れない。結婚できない。何のために生きてるのかって。」「クラウスさんはどうやって。」「諦めた?いや違うな。受け入れたというべきか。ギルドには入れないが腕は磨ける。結婚はできないが仲間はいる。小さな幸せだが、それで十分だと思えるようになった。」
数ヶ月後、ハンスはクラウスから木工の技術を学んでいる。「いいぞ、ハンス。いい。」「ありがとうございます。」ギルドには入れない。しかし技術を学ぶ喜びがある。だんだん形になってきた。「人間っていうのはな、ギルドに入るだけが全てじゃない。いい仕事ができればそれでいいんだ。」
夜、共同宿に戻ると仲間たちが待っている。「ハンス、今日エール買ったぞ。みんなで飲もうぜ。」「ありがとう。」粗末なエール。硬い黒パン。狭い共同宿。しかしそこには笑いがあった。「クラウスの親父。」「今日、説教してただろう。」「うるうるうるさい。お前たちに技術を教えてやってるんだぞ。」「感謝してますよ、親父。」
ある日、マルタがハンスに声をかける。「ハンス、元気そうね。」「ああ、クラウスさんに木工を教わってるんだ。」「よかった。私も洗濯の仕事、少しずつ慣れてきたわ。」結婚はできない。しかしお互いを気にかける仲間がいる。「ハンス、一緒に頑張りましょうね。」「ああ、マルタ。」
ハンスは工具を手に取る。自分の手で自分の人生を作る。ギルドには入れない。結婚もできないかもしれない。でも共同宿の窓から夕日が差し込む。仲間がいる。学べる技術がある。明日も生きていける。それで十分だ。
歴史家マイケル・ミッテラウアーの『ヒストリー・オブ・ユース』によれば、中世後期の西ヨーロッパでは独身男性の割合が人口の10%から20%にも達したという。彼らの多くは都市で生涯を終えた。しかしその中には、技術を磨き、仲間と助け合い、小さな幸せを見出したものもいた。
なぜ彼らは結婚できなかったのか。第一に、ギルド制度の壁。高額な加入金と厳格な会員制度が貧しい若者の参入を阻んだ。第二に、土地相続制度。多くの地域で長男相続が一般的で、次男以下は土地を持てず独立した世帯を営めなかった。第三に、教会の婚姻規範。経済的基盤のない結婚は無責任とされ、社会的に認められなかった。第四に、身分制度。厳格な社会が異なる身分の結婚を事実上不可能にした。
彼らの人生はこれからだ。教会の鐘が鳴り響く。中世ヨーロッパの空に静かな希望の音が広がる。結婚はしなかったけれど、仲間を見つけた、技術を学んだ、小さな幸せを見出した。それが中世ヨーロッパのある独身男のリアルな人生だった。